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2003.11.13
講座・講演録
部落解放研究128号(1999.06.30)より

「人権教育」から「人権総合学習」への展望

長尾彰夫(大阪教育大学)


1 「人権総合学習」はどこからきたのか

 最近「人権総合学習」といった言葉づかいがしばしばみられるようになった。察するところ、「人権総合学習」は、「人権教育」と「総合学習」の合成語であろう。つまり、人権教育を総合学習として構想し展開しようとすること、あるいは、総合学習のテーマとして人権をとり上げようとする試み、といったことなのであろう。いずれの場合にせよ、「総合学習」なるものが一つのキーワードとなっている。

 周知のように、2002年からの完全学校5日制にむけての新しい学習指導要領が示されたのだが、その最大の焦点が、いわゆる「総合的な学習の時間」の新設であった。いささかこだわったいい方をすれば、学習指導要領で示されたのは、あくまでも「総合的な学習の時間」の設定であり、その時間でどのような総合学習を展開するかは、基本的には各学校の創意工夫にゆだねられている。

  その時間での学習活動として、国際理解、情報、環境、福祉・健康といったことが示されてはいるが、それはあくまでも例示であり、すべてをやる必要もなければ、例示以外の課題を取りあげることも当然可能とされているのである(最近の文部省による新学習指導要領の説明会においても、この点は言明されている)。

 新設される「総合的な学習の時間」で行われることは、なんでもかんでもが総合学習というわけにはいかない。その時間で、どんな課題をテーマとして設定するのか。設定されたテーマをどのような視点と立場から問題としていくのか、そのようなテーマ性と立場性の検討が欠かせないのである。

  それゆえ、私は、「総合的な学習の時間」で行われる学習をそのまま総合学習とするのではなく、いま、現に、ここで生きている子どもたちにとって、どんなことを考え、いかなる力を獲得していくことが必要かを問いかけるなかから、求められるべきテーマと立場を明らかにしたうえで、各教科にまたがり、各教科での学習を総合していくような学習をこそ総合学習とすべきだとしてきている(こうした主張については、拙著『総合学習としての人権教育』明治図書、1997年、『総合学習をたのしむ』アドバンテージサーバー、1999年、等においてくり返し述べているところである)。

 いずれにせよ、私の主張は、新しく設定されてくる「総合的な学習の時間」を、テーマと立場をもった総合学習展開の場に、ということになる。だとすれば、これまでの同和教育、人権教育は、その実践の場を「総合的な学習の時間」に求め、そのなかで一段の充実と発展をめざすことができることになる。「総合的な学習の時間」で行うべきは、英会話とコンピューター教育であるといった声もあるなかでは、「総合的な学習の時間」を人権教育実践の場に、というのは、それなりに戦略的な重要性をもっているのでもある。


2 人権教育再構築からのアプローチ

 人権総合学習は、一面では確かに、述べてきたような学習指導要領の改訂を一つの契機とはしている。しかしその一方では、これまでの同和教育、人権教育のあり方の一定の見直し、その再構築を期する、といった視点からも注目されてきている。

 こうしたことは、本誌で紹介されている実践報告からも十分にうかがえよう。豊川中学校の実践報告は、次のように述べている。

 「以前より、『道徳』・『特活』の時間を使って実施していた人権学習(本校では『にんげん学活』と呼ぶ)の見直しが行われ、人権総合学習としてカリキュラムを作りかえてきた。(中略)それはあらかじめ敷かれたレールの上を生徒が歩いていくことになっていないか、教師の思いが先行した人権学習になっていなかったかなどの問い直しとなった」

 また、北条小学校での実践報告にも次のようなことがみられる。

 「時には人権学習が子どもの認識とすれ違ったところで実践したり、テーゼとして押しつけになったところや理性としては学習させても、感性を変えるところまでは迫りきれなかったところも存在した」

 述べられているように、これまでの人権教育に対する一定の反省、ある種の見直しが、人権総合学習への注目の背景には置かれている。このことは、次の点においてやはり重要な意味をもっていよう。つまり、これまでの人権教育の実践上での苦労の一つは、そのための時間をどこからもってくるのかにあった。

  多くの学校では、道徳や学活の時間をやりくりするなかで、その時間を生みだしてきた。ところが、「総合的な学習の時間」の新設は、こうした苦労をもはや不要としてくれる。これはありがたいことである。その時間を使って、これまで通りの人権教育を、これまで通りにやればそれでいい。こうした発想の限界と危険性を示してくれるのである。

 しかし、人権総合学習によって、これまでの人権教育の見直しを、といった場合、同時に陥ってはならない落し穴にも注意を払っておかなければならない。その落し穴とは、これまでの人権教育のすべてがまちがいであり、人権教育はすべからく人権総合学習でなければならないとする思い込みである。

 これまでの人権教育においては、時には、教師の思い込みが先行したり、テーゼの押しつけになりかねない弱点があったかも知れないとの反省は、もちろん必要である。しかしこうした弱点は、あくまでも人権教育のそれこそ歴史的な発展過程においてとらえられるべきものなのである。

 率直にいって、日本の人権教育についての理論的、実践的な蓄積は決して豊かなものではない。それは、近代日本の教育において、人権というものがどれほどの位置付けを得ていたか、それにいささかの思いを廻らせばすぐにもわかることなのである。人権教育とはそもそもどのようなものか、人権教育を具体的に展開していく方法、技術としてどのようなものが有効か、人権教育を展開していく場や状況はいかなるものとしてあるべきなのか、などなどについても多くが未整理のままとなってきた。その点では、諸外国の人権教育の蓄積に大いに学ぶ必要はある。

  しかし、諸外国の人権教育の発想や手法をそのまま導入、適用すればいいというものではない。人権教育を反差別の教育としてとらえることは共通的に可能であるとしても、それぞれの国、地域においては人種差別、民族差別、ジェンダー差別、宗教差別、などなど、その差別のありようと構造は決して同じではない。これらをスッ飛ばして、諸外国の人権教育を直輸入することに対してはしかるべき慎重さが求められてくるのは当然なのである。

 要するに、人権総合学習への注目と期待がこれまでの人権教育を安易にそして一方的な否定へとつながり、人権総合学習にあらずんば人権教育にあらずといったことになれば、そこには大きな危険性があるといわなければならない。そして、こうした危険性と落し穴を回避していくためには、人権総合学習とは何かが整理され、明らかにされていかなければならないのである。


3 人権総合学習をどうとらえるか

 新学習指導要領による「総合的な学習の時間」の設置、これまでの人権教育に対するある種の見直し。こうしたなかで、人権総合学習への注目と期待が大きくなってきている。では、そうした人権総合学習をどのようなものとしてとらえ、構想していくべきか。その特徴はどこにあるのか。こうしたことについて、紹介されている実践例をも参考にしながら、いくつかの点を整理しておくことにしよう。

 まず第一は、人権総合学習は、それを子どもとともに創る学習だという点である。北条小学校の実践は、人権総合学習の特徴として次のことを指摘している。

  1. 体験を大切にする。
  2. 生活との結びつきを大切にする。
  3. 自然や地域の人びと・文化とのふれあいを大切にする。
  4. 子どもの主体的な活動とその過程を大切にする。
  5. さまざまな活動を組織する。

 人権総合学習をこうした特徴でとらえようとすることは、基本的に間違ってはいない。それは、「総合的な学習の時間」のねらいとされているところ、あるいは、これまでの人権教育のある種の「弱点」といった視点からみても納得されよう。しかし、子どもの体験を大切にし、生活と結びつき、地域とふれあい、さまざまの活動を組織し、といったことは、これまでからもくり返し求められ強調されてきたことなのである。

  これまでくり返し求められてきたことを引きついでいくところに人権総合学習の普遍的な価値があるといえばそれまでだが、それでは話があまりにも安易にすぎよう。これまでからくり返し求められてきたことが、なぜ実現しなかったのか、そのことをふまえて人権総合学習の可能性と課題が示されていくべきなのであろう。

 子どもの体験や生活と結びつき、地域とつながったさまざまの活動をと、いったことがたえず強調されながらも、それが実現してこなかった原因の一つは、子どもの体験や生活を、といった主張が、実のところは、学校と教師からみての、あるいは学校と教師が準備し、学校と教師が認め、計画しうる限りでのことでしかなかったところにあるのではないか。体験と生活に結びつきさまざまの活動を、といったことが学校と教師の予測と許容の範囲に止まり、そのいわば制御可能の枠内でのことにすぎないとすれば、そうした人権総合学習は高がしれているのである。

 紹介されている実践例がそうだというのではないが、人権総合学習として紹介されるもののなかには、実に周到に準備され、パーフェクトな計画が立てられているといったものもある。しかし、子どもたちの現実としてある体験や生活は、それにおさまりきれるものではない。学校や教師の予想や計画を超えて子どもたちの体験や生活ははるかに豊かでもあり、また貧しくもある。

 人権総合学習には何の準備も計画もいらない、あってはならないというのではない。しかし人権総合学習では、学校と教師があらかじめ予測し、お膳立てをしたその計画に従っていけばそれでしかるべき成果がコロコロと生み出されてくるのではない。学校と教師の予想や計画を越えて、子どもたちの現に生きている生活とその体験の広がりと深まりがまともに出会い、ぶつかりあっていく、そのダイナミズムこそが人権総合学習では最も大切にされなければならない。それが、子どもたちとともに人権総合学習を創り出していくことでもある。

  もしそのような人権総合学習が展開されるならば、それは人権意識を高めるための学習、人権について何ごとかを学ぶための学習を超えて、いま、現にここで学ぶこと自体のなかで子どもが解放され、自らを発見し、まさしくいまここを生きていくような学習となりうるのではあるまいか。

 人権総合学習の注目すべき第2の特徴は、それが地域に開かれているという点である。学校と地域社会との結合、地域に開かれた学校づくり、地域に根ざしたカリキュラムの開発。こうしたこともこれまでくり返し求められ、必要とされてきた。人権総合学習は、その学習が地域に開かれていく、いかざるをえないという点で、これまでくり返し求められてきた課題を具体的に実践化していく最良の素材となっている。また、本誌で紹介されている実践例が示すように、人権総合学習の取り組みのなかから、地域と結びついた学校のあり方、カリキュラムづくりの確かな方向、新たな可能性が明らかにされつつある。

 茨木市立豊川中学校の実践が、小学校、中学校、高等学校までを含んで12年間の人権総合学習の構想を準備しえているのは、それがなによりも、地域の学校、地元の学校での取り組みとなっているからである。また、筑紫小学校の実践は、単なる地域との結びつきといったレベルを超え、人権総合学習が、それこそ丸ごと全部として「子どもと教師と保護者そして地域の人たちとのワークショップ」となっている。そこでは、人権総合学習による学校づくりが、そのまま地域のまちづくりとなろうとしているのである。

 人権総合学習は、その内容や形態が学習指導要領に示されているわけではない。またすでに指摘してきたように、その学習では現に子どもたちが生きている生活やそこに根ざしてのリアルな体験との接点が欠かせないものとなっている。そうしたことからすれば、人権総合学習においては、その学習の素材を地域から求め、その学習が地域を場とし、地域の人びととともに展開されていくべきことは当然のことでもある。人権総合学習は、地域に開かれ、地域の人びととともに創り出されていく学習なのである。

 しかし、その場合、今一度、問い直され、改めて明らかにしておかなければならないことがある。それは、地域とは何かという問いかけにつながっている。地域とは一定の区画された地理上の領域、区域というにとどまらず、その区域で営まれている生活の共同性、つまりコミュニティといわれるような生活共同性(体)をも示している。地域=コミュニティとは何かをここで論じる余裕も力量もないが、人権総合学習が地域に開かれた学習であるということにかかわって、次の点だけは、ぜひとも強調しておかねばなるまい。

 それは地域とは、すでにできあがった、しかもこちらにとっていつもこころよく協力してくれるようなものとしてあるのではないということである。行政的に示されてくる通学区である校区をさしあたりは地域としているのだが、そこで生活している人びとの共同体なるものが、こちらから手をさしのべれば、ヒョイと手を結んでくれるような都合よくできあがったものでないことは、すぐにもわかろう。地域にはそれこそさまざまに利害を異にするさまざまな人びとが生活しているのであり、そこでは利害の対立や矛盾は当然といっていいほどに存在しているのである。

 人権総合学習は、地域に開かれ、地域の人びとと手を結び、地域の人びととともに創りあげていくような学習である。しかし、問われるべきは、さまざまの利害の対立や矛盾のあるなかで、地域の誰と、どのようにして手を結ぶのか、である。そしてさらに留意しておくべきことは、人権総合学習の展開において、最も手を結ぶべき人びとは、実は学校から最も遠くにいることがしばしばあるということである。そこでは、手を結ぶべき相手と結ぶべき関係のあり方そのものを同時に模索し創りあげていくことが求められているのである。こうしたことを含めて、人権総合学習は地域に開かれ、地域と結びついて進められていく学習なのである。

 人権総合学習の第3の特徴は、これまでの学校のあり方をゆるがし、その変革を迫るという点である。人権総合学習は子どもたちのそれこそ生きた現実と結びつき、地域そのもののとらえ直しを求めていく。そうした人権総合学習がカリキュラムに位置づくことによって学校のあり方そのものの変革が必然化されてくるのである。

 いささか瑣未的にみえるかも知れないが、人権総合学習のカリキュラムは、碁盤のマス目のように計画された時間割にそれをポコポコと埋め込んでいく必要はない。何時間かをつなげて、あるいは丸1日とか2日とかを通して計画されてもいい。一人の教師が教室で黒板を背にしてといったスタイルに収まりきれるものでもない。学校の教職員以外の人びとの協力、登場は当然のことともされよう。いわゆる「総合的な学習の時間」については、数値的な評価は行わないとされている。

  人権総合学習での評価はどのようになされるべきか。そこでは教育における評価の原点に立ち返って、その教育活動にかかわったすべての者が、自律的にその教育活動の価値を判断し(その教育活動がどれほど値うちのあるものであるかを判定し)、その教育活動の点検と修正を図っていくべきなのである。学校と教師があらかじめ前提とした価値尺度(評価基準)によって、教育活動を測定し、評定していくといった教育評価は、人権総合学習では無用で無縁のものとされなければならない。

 こうしたことは、人権総合学習がまさしく各学校の創意工夫、特色あるカリキュラム創りとしての新しい学校のあり方を要請していく。人権総合学習の構想と展開は、これまでの学校のあり方それ自体を大きく変革してインパクトをもっている。これまでの学校のあり方をゆるがぬ前提とし、そのなかに人権総合学習を波風立たぬよう軟着陸させようとすることは、人権総合学習のもっている最もラディカルな側面を見落していく。そうしたことでは、人権総合学習は、気まぐれな教育政策の変化の谷間で、一時的に咲いたあだ花にしかならない。

 人権総合学習は、これまでの学校のあり方、カリキュラムのあり方、「学び」のあり方、それらに対しての新たな変革をうながしていく、具体的な第一歩となるべきなのである。そのことを確認した上で、さらに一言付け加えておかなければならない。それらの変革は、従来のものがともかくも新しく変化すればいいというものではない。その変革が、誰にとって、どのように役立つのか、いかなる利益をもたらすのか、そのことがくり返し問われていかなければならないのである。

 学校とカリキュラムは、いま、大きく変わろうとしている。誰の、どのような力(パワー)が、その変化のあり様と方向を定めていくことになるのか。その点では、学校とカリキュラムの変革のあり方をめぐってのもろもろの権力(パワー)が織りなす複雑な権力関係のポリティックス分析が、今後一層重要となっている。そしてそれは、人権総合学習をも含めて、総合学習といわれるものの「立場性」の重要さということにつながっている。