講座・講演録

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2004.05.17
講座・講演録
 第33回部落解放・人権夏期講座 より

日本とアジア
―その歴史と現代の課題

上田正昭(世界人権問題研究センター理事長・京都大学名誉教授)

はじめに

  21世紀に入り、早くも2年8カ月ばかりの年月が過ぎました。みなさん、それぞれに20世紀に対する総括をされ21世紀に対する期待を持っておられると思います。私が20世紀という時代を考えるとき、次の四つは、どうしても忘れられないことです。

20世紀とは、どのような時代であったか

  一つ目は、第一次世界大戦、第二次世界大戦という戦争の名称が象徴しているように、地球全体が戦争の渦に巻き込まれた文字通り戦争の世紀でした。20世紀後半でも、各地で戦争が続いています。

  テレビ報道でも、パレスチナとイスラエルが深刻な状況を迎えています。だから、何としても21世紀には平和を築く必要があります。多くのみなさんが、そのように願っているにもかかわらず、現実は反対です。

  2001年9月11日のニューヨークの世界貿易センターあるいはペンタゴンへの自爆テロ、アフガニスタン戦争、イラク戦争というふうに21世紀は戦争で始まるという、たいへん残念な状況におかれています。私たちは、もう一度、平和とは何かを改めて考える必要があると思います。

  二つ目は、自然の破壊、環境汚染がこんなに深刻になった時代は、かつてなかったことです。国連は人権問題にも懸命に取り組んでいますが、環境問題にも努力を重ねています。1972年スウェーデンのストックホルムで、環境問題を考える国際会議が開かれました。これは10年ごとに会議がおこなわれています。昨年、2002年は南アフリカのヨハネスブルグで会議が開かれました。1997年12月には、京都宝ヶ池国際会議場で、地球温暖化防止の、いわゆる京都議定書が採択されました。クリントン大統領のときでアメリカも京都議定書に賛成していましたが、ブッシュ政権になり、京都議定書から脱退するということになりました。ロシアのプーチン大統領も保留するということで、今、京都議定書は宙に浮いたかっこうになっています。環境の問題は、人権の問題と並んで、21世紀の人類への重要な宿題になっているわけです。

 三つ目は、民族紛争が、これほど激化した時代はかつてなかったことです。本来、宗教は人類の救済をめざして教えを説いてきたはずでしたが、宗教をめぐる紛争も、きわめて深刻な状況になっています。そして、多くの難民が祖国を追われ、さまよっています。今日は、3,000万人を超える人びとが難民となり、飢えに苦しみ、病に倒れています。

 20世紀は人権受難の世紀であった、と言っても過言ではないと思っています。したがって、21世紀は、人権文化が豊かに創造される世紀にしなければならないと思います。

 20世紀前半を振り返ってみると、世界の政治・経済・文化をリードしたのは、ヨーロッパでした。後半はアメリカが世界の主導権を握って、現在に及んでいます。言い換えますと、20世紀は欧米が世界をリードした世紀でした。アジア、アフリカなどの独自性、その輝きが評価されなかった時代です。これが四つ目です。私どもアジアに住んでいる人間としては、アジアが輝く世紀にすべきであろうと私は願っています。

 1990年に、アジアの歴史学、考古学を研究している先生方が中心になり、「アジア史学会」という国際学会を作りました。第6回大会で、はからずも私が会長に選ばれ、2003年12回大会を迎えています。アジア史学会の先生方にも、アジアが輝く世紀にすべきではないか、それだけの潜在のエネルギーがある、歴史がある、文化がある、それをアジアが自覚していないのではないか、と繰り返し言っています。それも、私が20世紀を、そのように考えているからです。

日本列島の歴史と文化がいかにアジアの世界と連動して発展してきたか

 日本は周りを海でかこまれた文字通りの島国ですから、日本の歴史や文化はこの島国の中だけで発展してきたように考えている日本人が多いのです。

 しかし、そうではありません。南からは黒潮が北上しています。その分流は、玄界灘から山陰の沖を北上し、能登半島まで及んでいます。輪島市に重蔵神社がありますが、本来はヘクラ神社と呼ぶべきです。が、ここの夏祭りでは南九州の神話伝承につながる祭りが、現在もおこなわれています。これは黒潮分流による海上の道によって、南九州の神話伝承が重蔵神社祭りに伝わっていることがわかります。黒潮の主流は太平洋側を千葉県房総半島の方へ北上していきます。北からは親潮が、北海道の東から九十九里浜の方へ向かって南下しています。「日本海」は、古く日本の古典では「北ツ海」と呼ばれていました。

  「日本海」という名称が初めて具体化したのは、1602年です。マテオ・リッチという宣教師が北京で世界地図を描いている中に、「日本海」という名称がはっきり書き込まれています。朝鮮民主主義人民共和国の方や、大韓民国の方が、国際的な世界地名会議の席上で、「『日本海』という名称を使うのはもってのほかである、『東海』と呼ぶべきである」と主張をされています。しかし、「日本海」という名称は、明治政府が付けた名称ではなく、17世紀のはじめから使われているわけです。

  日本で、私の調べた限りでは、日本で最初に「日本海」という名称を使ったのは、山村才助というオランダ学をやった蘭学者です。特定の国の名称を、公の海に付けているのはけしからん、という意見もありますが、そういう例は他にもあります。たとえば、インド洋もそうです。私たち日本人は、「日本海」を「東海」と呼ぶことはできません。古典は「北海」と書いているわけです。

 その「日本海」には、ウラジオストックの沖を南下して、朝鮮半島の東側を流れるリマン海流が流れています。そして、黒潮分流と合流して、北側へ回流しています。

 日本列島は周りを海で囲まれていますから、海外とのつながりは盛んであったわけです。「島国だから閉ざされていた」という考え方は歴史の実際とは、異なっています。私はこれの考えを島国史観として批判してきました。

遣唐使時代の実相

  遣唐使は、630年から834年まで中国へ15回行きました。そのうち、1回は中国へいった使節が帰ってこないので迎えにいった使節です。中国からきた使節を送って行く使節が、2回。あわせて15回です。だから、約200年間に、正式はたったの12回、唐からの使節は9回(正式には8回)なのです。われわれの学界では、8世紀から9世紀のこの時代を、よく遣唐使時代と呼びます。しかし、こういう考えもまちがいです。なぜなら、727年から911年まで、約200年間続いた渤海(ぼっかい)という国の交渉もあったからです。わが国から15回使節が行っています。渤海からは、正式に国書をもってきたのは34回に及ぶのです。

  つまり、唐との関係ばかりで、7回、8世紀から9世紀のわが国の外交を論じたら、歴史の実態にはそぐわないのです。まして、当時の朝鮮半島は、統一新羅でした。新羅が約9割を統一していました。新羅との交渉は、唐や渤海とよりも、はるかに頻繁でした。一番、密接に外交関係をもっていたのは、朝鮮半島との間です。

 菅原道真が遣唐使派遣中止を進言し、遣唐使派遣はなくなりました。今でも「そのあと、日本は国風文化の時代になった」と書いている教科書は多いようです。しかし、唐との公の交渉はしていませんが、民間貿易はずっとしています。あるいは渤海との交渉は続いていますし、渤海の後に起こった東丹(トウタン)国からの使節もわが国にきています。遣唐使の廃止によって、わが国が閉ざされた国になったように言うのは、歴史の実相に反しています。

完全な「鎖国」の時代はなかった

  もっといい例は「鎖国」という考え方です。今の歴史年表でも歴史教科書でも、寛永12年3代将軍家光の時代に、貿易に関する制限の法律を出したことが載っています。それを「鎖国令」と託しています。寛永16年には、ポルトガル船の来航を禁止しました。多くの教科書は、これを「鎖国の完成」と書いています。そもそも「鎖国」という言葉は、寛永12年、16年に幕府が出した法律には書かれていません。「鎖国」という用語は、オランダ商館長ケンペルが書いた「日本誌」の翻訳本が1802年に出たとき、芝筑忠雄が初めて使った言葉です。翻訳語なのです。それを契機に「鎖国」という言葉が広がっていきました。

 そして、完全に、徳川幕府が鎖国をしていたわけではありません。幕府が「通商の国」と呼んでいたのは、オランダと清国でした。だから、長崎にはオランダ商館があり唐人屋敷がありました。外交もする国は「通信の国」と幕府が呼んでおり、朝鮮王朝と琉球王朝でした。したがって、琉球からは使節がきますし、朝鮮王朝からは1607年から1811年まで12回に渡って朝鮮通信使が来日します。こういう史実を「鎖国」という言葉で消し去って、日本の歴史を論ずるような見方、考え方はまちがっています。

 日本の歴史と文化はアジアと連動しながら、アジアとのつながりの中で発展してきました。もちろん、日本の歴史や文化は、日本列島の内なる要因によって発展してきたことは言うまでもありません。しかし、外なるアジアとのつながりによって発展してきたことも、はっきり見ておく必要があります。

飛鳥時代と渡来の文化

 飛鳥時代、推古天皇の代を中心とする時代で、聖徳太子が活躍した時代です。聖徳太子すなわち厩戸皇子(うまやどのみこ)の周りには、百済、高句麗、新羅からの人びとが多くいました。そして、600年に第1回遣隋使を派遣し、614年まで正確には5回、隋に使節を派遣しました。きわめてインターナショナルな人物です。厩戸皇子は49歳で没しました。その死を悲しみ多至波奈女郎(たちばなのいらつめ)が天寿国への往生を願って刺繍をさせた帳が「天寿国繍帳」です。その全部は残っていませんが、一部が正倉院や中宮寺に残っていました。刺繍をしたのは、宮廷の采女たちでしたが、その繍帳の絵を描いたのは、高句麗・百済・加耶(かや)系の渡来人でした。絵全体のディレクターをしたのは、新羅系の人物でした。描かれている絵を見ると、男性の服装や女性の姿かたちは、高句麗の壁画に非常に似ています。

 これはその一例ですが、朝鮮半島や中国とのつながりを抜きに、飛鳥文化が日本固有の文化であるという「大宝令」や「養老令」は、あきらかにまちがっています。

 「大宝令」や「養老令」における「職員令」は、役所の名前とそこにいる職員のことを、くわしく書いている法令です。八省のひとつ治部省に「雅楽寮」というのがありました。ここは歌と舞をつかさどるところです。日本の伝統的な舞や歌を習うメンバーもいますが、「唐樂師十二人」とあるように唐樂を日本の役所で勉強させています。また「高麗、百済、新羅」の楽師が12名います。雅楽寮のメンバーは、総計しますと459名です。それ以外に樂戸の人たちがいます。当時の役所の中で、職員のもっとも多いのが、「雅楽寮」でした。

雅楽はアジアの音楽と舞を日本で集大成したもの

 日本の雅楽は、日本のもっとも古い古典芸能です。平安時代には、家元制度がありました。1869年には宮内省楽部になりました。雅楽は、京都、奈良、大阪の三つのグループ(楽所)にわかれ、雅楽は日本の古典芸能ですが、アジアの音楽と舞いをわが国で集成したものなのです。平安時代のはじめ、933年の頃、左方と右方の両部制を採用します。それが、現在続いています。左方は唐樂が中心で、ベトナム樂などが加わります。右方とは高句麗、新羅、百済、渤海の樂です。もちろん、伝統的な日本の歌や舞もありますがアジアの音楽と舞が、雅楽の中心なのです。

 雅楽は芸能として今も生きているものです。つまり、雅楽は生ける正倉院であす。多くのみなさんが、日本独自の固有の芸能だと思っている雅楽はも、そうではなく、アジアの音楽と舞いを日本で集大成したものなのです。いかに、日本の文化がアジアとつながっているかということが、この例をみても、おわかりだと思います。

アジアとの長い関係史には、光もあれば影もあった

 非常に残念なことに、豊臣秀吉およびそのブレーンが中心になって、日本でいう「文禄・慶長の役」、朝鮮民主主義共和国のみなさんや、韓国のみなさんがいう「壬辰・丁酉の倭乱」です。これはぬぐうことのできない朝鮮侵略でした。また、日露戦争以後、露骨に朝鮮を支配する政策を取り、日本の植民地として、36年間、朝鮮を支配しました。そして、朝鮮のみなさんの名を奪う、いわゆる「創氏改名」を強制し、土地を奪い、命を奪うという、まことに残念な行為をおこないました。中国も侵略しました。このようにアジアと日本の関係は、かならずしも友好な歴史ばかりではありません。

 太平洋戦争では、東南アジアをはじめ南方の諸地域の方がたにも、さまざまな被害を与えたことは、言うまでもありません。アジアと日本の関係を論じるときに、この影の部分をどこかに置いてしまって、親善友好の光の部分だけを語るわけにはいきまん。

 影の部分は、しっかり認識する必要はありますけれども、影に光をあてて、その正体を浮き彫りにする必要があります。その光は斜めからあてれば、影は伸びます。真正面から光をあてる必要がある侵略の、あるいは植民地支配のアジアの人びとに及ぼした被害を、私どもは率直に認めるべきですし、その正体を今一度、明確にしておく必要があると思います。

 しかし、友好の歴史の方が、侵略や植民地支配の歴史よりも長かったということも、事実です。その例が、朝鮮通信使です。朝鮮通信使の始まりは、徳川家康が朝鮮との関係を修復するために努力して、朝鮮王朝がそれに応じて、実現したわけです。しかし「通信使」という名前が使われるのは、第四回からです。それまでは、朝鮮側は徳川幕府から申し出てきたので、それに応じるかたちですから「回答使」あるいは、日本にたくさんの捕虜が囚われているわけですから、それを取り戻す「刷還使」あるいは「探賊使」と称しています。

 朝鮮通信使は、ふつう500名ぐらいくる大文化使節団です。第4回からは医者も参加しました第7回からは「曲馬上覧」が恒例化します。江戸まで行かず大阪止まりの人たちもいましたから、一番少ないときでも、400名を超えていました。そして、当時の民衆が歓迎し、民衆が朝鮮通信使の宿をたずねました。今でいう日朝親善の潮流に、江戸時代の民衆が参加していたわけです。そういう歴史を明らかにすることによって、誤れる侵略や植民地支配の正体を明確にしていくことが必要だと思います。

危惧されるあらたな脱亜論や興亜論

 私たちがアジアを考える場合、三つの立場があります。一つは「脱亜論」です。この考えは、今でも日本のインテリにかなりあります。アジアは遅れている、欧米と手を結ばないと日本の未来はないのだ、という考えです。これは、福沢諭吉が1981年の「時事小言」の中で初めて書いています。そして1885年の「脱亜論」では「アジアの友は悪友である」と断言しました。これを私は日本版中華思想だと言っているのです。こういう考え方が「帰化人」という言葉を生んでいくのです。「帰化」という言葉は中華思想の産物です。明治の「脱亜論」では、野蛮国はアジアであり、隣国は欧米なのです。日本の近代史を振り返ると、外交の基軸は欧米で、今もあまり変わっていません。アジアの同盟という視点は、今もきわめて弱いのです。

 また、今、「興亜論」が大きくよみがえり始めています。満州事変以後、こういう考えが強くなってきました。1938年12月には内閣に興亜院という役所ができるほどでした。これが「八紘一宇」という言葉に重なるわけです。アジアを興すことはいいのですが、アジアの中心が日本だという考え方です。これは「大東亜共栄圏」になります。

 この二つは、今もなお、かたちを変えて、アジアの問題を論ずるときに必ずでてきます。私は「脱亜論」「興亜論」の正体を見極める必要があると思っています。

 それならば、どうしたらよいのか。私は「アジアの中の日本」という立場が大切です。よく「アジアは一つ」と言いますが、それは虚像です。アジアほど、民族が多く、言語がこんなにバラバラで、宗教がこんなに多様である地域はめずらしいのです。だから、なかなか友好と連帯も難しいのです。アジアは一つではありません。しかし、歴史を振り返れば、アジアの歴史には友好・連帯の歴史も数多くあります。私どもは、その歴史の記憶を取り戻す必要があります。

 そして、今、大事なことは、民衆同士が連帯していくことです。1980年代から申し上げてきました民際交流です。民衆サイドのアジアのネットワークが一番大事なときではないかと思います。まさに、パートナーシップを組んで、民衆のネットワークを構築するために努力していくべきではないでしょうか。