近世の檀家制度―寺檀関係については膨大な研究成果が蓄積されているが、被差別民の複檀家制に限定するならば、西木浩一氏が相模国大磯宿の長吏集団に複檀家が存在することを論及しているだけである。
本報告では、「婚を結ばず、只同火はせざる者もあれどさのみは忌まず」という習俗的差別を被っていた紀伊国の夙村のひとつである牟婁郡敷村の複檀家制を取り上げ、その構造と特質を探ろうとするものである。
(1) 敷村複檀家制の構造
敷村民の宗判権を有していたのは、村内の真宗西本願寺派覚照寺と浄土宗西山派超願寺の2か寺である。それぞれ天文15年(1546)、天正元年(1573)に建立され、当初から敷村民のみを檀那としていた。
現存する安政6年(1859)の「切支丹御改帳」によれば、同年の複檀家は敷村全戸数の40.8%を占めている。一軒当たりの家族数は、覚照寺檀家は3.81人、超願寺檀家は5.79人、複檀家は5.19人となっている。複檀家の個々人を所属する檀那寺に則して区分けした上で、敷村民全体の男女別年齢構成をみると、覚照寺檀那と超願寺檀那の間に大差は認められない。戸主からみた家族の続柄を整理すれば、覚照寺檀家・超願寺檀家・複檀家ともに、兄・おじ・おば・甥・姪・いとこ・祖父母・子の配偶者は皆無であることから、敷村の基本的な家族形態は単婚小家族であることがわかる。
そこで、安政6年の複檀家31軒に限定してその類型化を試みるならば、
- 男性と女性の檀那寺が完全に分離している集団(22軒)
- 男性の檀那寺は同一であるが女性のなかで檀那寺が分かれている集団(9軒)
に大別され、さらにB集団は、
- 戸主と女房が別の檀那寺(3軒)
- 戸主と女房が同一の檀那寺(6軒)
に小別される。
(2) 敷村複檀家制の特質
寺檀関係をめぐって18世紀後期に繰り返された争論から、敷村の複檀家制には以下のような特質を見出すことができる。
- 複檀家制成立の要因 … 家族の少ない敷村で2か寺の共存を図るために、家族を両寺に振り分けることによって両寺の檀那数の均衡を保つ。
- 檀那振り分けの方法 … 人別に登録される8歳時の宗門改めに際して、本人と村役人が相談して檀那寺を決める。これは、寛文5年(1665)の「諸宗寺院法度」に「檀越之輩雖為何寺、可任其心、従僧侶方不可相争事」と規定されていることと符合する。
- 養子縁組の原則 … 養子は養家の宗旨に改宗し、養家の檀那寺の檀家になるのが通例である。
- 嫁入りの場合 … 嫁は実家にいたときの宗旨を変更せず、嫁ぎ先の宗旨に改宗しない事例が容認される。
- 兄弟の檀那寺分離 … 覚照寺の口上によれば、18世紀後期には兄弟で檀那寺が異なる事例(C集団)も存在している。
ところが、19世紀初期になると、個別の家のなかで伜・養子は男親の檀那寺に、娘・嫁は女親の檀那寺に固定すべきであるという村掟が確認されるようになった。その結果、幕末期の安政6年(1859)になるとC集団は消滅しているが、女性の檀那寺が分かれるB集団が存続していたことも事実である。
以上のようにまとめられる敷村の複檀家制は、寺檀制度の確立にあたって幕藩領主権力はキリスト教など禁制の宗旨を除けば、住民がどの宗旨、どの檀那寺に属するかについては干渉しないことが原則であるとする、福田アジオ氏・山本尚友氏・西本氏の議論が正鵠を射ていることを立証するものである。同時に、領主権力の政治支配を一面的に強調・過大視する芝英一氏の言説が成り立たないことを明らかにしている。
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