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2006.06.26
部会・研究会活動 <歴史部会>
 
歴史部会・学習会報告
2006年4月15日
大阪における近世中期の被差別民
−大阪の部落史 第2巻 史料編(近世2)の発刊にあたって−

中尾 健次(大阪教育大学教授)
   崎谷 裕樹(大阪の部落史委員会事務局)


 歴史部会4月例会は、『大阪の部落史』第2巻の発刊にあたって、崎谷さんから編纂方針や特徴などの総論的な内容が、中尾さんから注目すべき史料の紹介といった各論的な内容が報告された。

 先ず、史料編近世の編集方針と「史料編 近世2」(対象時期は宝永元(1704)年から寛政(1800)年までである)の特徴については、<1>かわた身分のみならず、他の被差別民もできるだけ取り上げるという方針に対して、「近世2」ではかわた身分が中心であるが、「四ヶ所長吏制の展開と非人番統制」、「三昧聖と東大寺龍松院」、「多様な被差別民の分岐」といった章立てを構成することにより「近世1」よりもさらに多くの被差別民を取り上げることができた。

 <2>大阪府域(摂津・河内・和泉)に存在したかわた村を網羅的に取り上げるという方針に対して、史料発見にムラがあり、摂津では北摂地域が少なく、河内・和泉でも取り上げられていない村がある。

 <3>新出史料を中心に編纂するという原則に基づくが、既刊史料集(例えば『河内国更池村文書』や『和泉国かわた村支配文書』)に掲載された史料を補完する役割の史料が多数収録できた。

 <4>収集した個々の史料が持つ歴史的な意味を考えて章立てするという観点から、分量が多い史料で、細分化して掲載するよりも全文を掲載するべきと判断したものについては、史料編補遺に収録する。といった内容が報告された。

 次に、各史料から読みとれる注目点として報告された内容を幾つか纏めてみたい。

<1>渡辺村の利右衛門が仲間と共に、「獄門」に処された罪人の首を、罪人の主人方へ持参して銭を脅し取った事件が起きた。大坂町奉行所は取り調べの上、利右衛門を「軽追放」・仲間を「摂河両国払」に処する旨の伺いを大坂城代の提出したのだが、裁決は利右衛門は「死罪」、仲間は「遠島」であった。町奉行と城代の考えが余りにも隔たりがあったのは何故か。「役人村」として町奉行の下働きを担っていたことに原因があるのではないかと推察できる。

<2>享保5(1720)年に、皮剥などの死牛馬処理は、百姓ではなく「えた」が行うとする幕府の見解を、五条役所が大和・摂津の村々に順達した。このことに関して、一般論として幕府の方針が述べられたのか、何かの必要性に応じて述べられたのか、その詳細は判然としないが、「えた」の死牛馬処理権が確立されるにあたって、政治権力が果たした役割の一端を垣間見ることができる。

<3>天明3(1783)年に渡辺村の太鼓屋金兵衛が発行した、太鼓の30年間保証書がある。これには、太鼓皮に適した皮を見つけることが可能であった渡辺村の集荷力と、些細なことでは破れない太鼓皮を製作できるという職人の技術に対する自信と誇りが見受けられるだろう。

 その他にも、岸和田城内にて島村皮多村の甚兵衛が商いを行っていたことや、本願寺の「御凶事」に対して渡辺村の正宣寺が150両もの大金を上納したことへの返礼が菓子一箱であったことなど興味深い事例が紹介されたのだが、紙幅の関係で割愛する。尚、関連する内容が、「大阪の部落史通信」38号にも掲載されているので参照して頂きたい。

(文責:藤原 豊)