調査研究

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2007.11.29
部会・研究会活動 <歴史部会>
 
歴史部会 学習会報告
2007年9月1日
 最初に、司会の朝治武さんより、今回の両報告は大阪人権博物館所蔵の上田静一文書を利用した共同研究の成果報告であり、本年1月付で発行された『大阪人権博物館紀要』第9号には大藪論文がまにあわなかったが次号には掲載される予定であるとの紹介があった。
上田静一と北海道移住

大藪 岳志(北海道史研究者)

〈第1報告〉

 大藪報告は、1906年に京都市の田中部落に親友夜学校を開き、その後およそ10年間校舎の二階で家族とともに起居した教員にして改善運動家であった上田静一を、彼の北海道移住事業を中心に追跡したものである。上田については、重要な先行研究として、白石正明「上田静一小論・親友夜学校と北海道移住」解放教育史研究会編『被差別部落と教員』(明石書店、1986年)がある。また北海道移民については、藤野豊や黒川みどりなども触れているが、わからないところが多い。自分は現地調査によって北海道庁史料を入手したので、白石論文後の20年間の移民研究の進捗などを踏まえて再検討したいと、そのねらいを述べた。

 帝国公道会など、部落改善運動の関係者によって1910年前後から部落民の北海道移住の構想が語られるようになる。内務省もこれを奨励し、1916年には帝国公道会の大江天也と協議のうえ、上田が田中で移民団を組織して、北海道に渡る。

 上田の率いた移民団は当初11戸で形成されたが、そのうち田中部落からは6戸、残りは上田の義弟や兄などの親族が主であった。入植後にうけいれた岐阜県出身者17戸をはじめとする24戸は、そのほとんどが入植地の近隣に縁故をもつ希望者を、入植許可地の余地に充てたという事情によるもので、部落出身ではないらしい。上田は移住後も冬には京都に戻ってきて、京都にのこした家族と生活するという二重生活であった。

 上田は部落民ではなく、現在の大阪府富田林市の山間部の裕福な農家の出身であった。この生い立ちが原風景となっていることが、入植地の地形と生家周辺の地形とがよく似ていることからもうかがわれる。さまざまな限界はあり、妻を京都にのこして北海道で別の女性と同居するなど評価に悩む部分も少なくないが、部落の生活を向上させようと率先した先駆的実践者であったといえるだろうと、まとめた。

田中親友夜学校と上田静一

白石 正明(九州大学非常勤講師)

〈第2報告〉

 白石報告は、同じタイトルの『大阪人権博物館紀要』掲載論文を概観したうえで、大藪報告は田中親友夜学校の財政基盤が教育講の不正によって崩れたことで打開策として北海道入植がすすめられたととらえるが、それは当たらないのではないかと提起した。ひきつづき討論では、大藪さんに白石論文との違いを明確にすることをもとめ、北海道移民事業は帝国公道会の方針のもとで上田が自ら実験台となったものと考えるべきではないかと問いかけた。これとかかわって、参加者からは、上田、帝国公道会、国家それぞれの思惑の絡みが視野から抜け落ちると議論に緊張感がなくなるとの指摘があった。

 また、大藪報告が上田が部落民の生活を一貫して重視していたと高く評価したことについては、しかし

 北海道が先住民族たるアイヌ民族を侵略した植民地であったこともまた厳然たる事実であり、当時そのことが上田に見えていなかったのだとしても、歴史研究においてはそのことも踏まえたうえで評価を行なうべきであるとの意見が寄せられた。

 このほか、討論では、北海道に移民した部落民の全体像や、移住後の差別の実態などが問われたほか、アメリカ移民なども視野に入れて部落からの出移民を考えるべきだとの提起もみられた。

(文責:廣岡浄進)