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2008.03.31
部会・研究会活動 <歴史部会>
 
歴史部会 学習会報告
2007年11月10日

被差別部落と小学校史
-京都・東三条を中心に

中西宏次(立命館大学他非常勤講師)

 報告者はこれまでに、解放教育研究会を改組した教育解放研究会の一員として、教育解放研究会編『学校のことば・教師のことば』(東方出版、1994年)を出した。そこでは、「がんばれ」「いい子」などの学校教師の多用することばをとりあげた。次いで、同会は『学校のモノ語り』(東方出版、2000年)をつくり、学校のモノについて考えた。同会はその後さらに教育の境界研究会と改称し、中島勝住編著『学校の境界』(阿吽社、2003年)を出した。同書所収の中西「学区界の変容」は、京都周辺の被差別部落(千本・七条・三条・田中)を校区にもつ小学校の校区界が内包する意味がどのように変容してきたかを論じており、本報告にも関連する。ちなみに報告者はこのかん、『聚楽第 梅雨の井物語』(阿吽社、1999年)を上梓している。

 被差別部落東三条は、京阪三条駅のすぐ東にあり、千本・七条・田中が街はずれにあるのとは対照的に、都心に近い。前近代のかわた村天部(あまべ)は、豊臣秀吉によって現在地に移転させられ、長方形の堀によって周辺から区切られた。その西隣、鴨川との間には「寺裏」と呼ばれる非人小屋が形成された。

 解放令が出されると、天部村は寺裏とともに京都市下京に編入されたが、このときに天部村は二分されて別々の番組に編入された。京都府は、番組に1つずつ小学校を設置させ、同時に行政末端としての機能も担わせる政策をすすめていたので、このとき天部村は解体された。両校は現在の有済・粟田小学校である。

 明治維新後にすすむ部落の貧困のなかで、就学率は低迷した。分割された南側の地域の名望家である竹中庄右衛門は夜学校の設置をめざし、3度の挫折を経た末、北側も参加する協同教育講をおこして協同夜学校を開き、かつての天部村の核であった大将軍神社の境内に校舎をかまえた。有済・粟田の両小学校から教員の派遣を受けた夜学校は、コミュニティを再統一したのである。また、寺裏には浄土宗知恩院の援助を受けて酬恩夜学校が運営された。現在でもそこは福祉地区とされ、同和地区とは区別されて扱われてきた。

 戦後はやくから粟田小学校は同和教育への取り組みを開始した。1947年には『粟田学園研究報告特集号』を発行し、校区内部落の実態調査がおこなわれている。1958年には京都市教委から同和教育研究校に指定され、その後文部省からも指定をうけた。このかん、1953年には全同教が発足している。1960年の雑誌『部落』第126号と第127号には、同和教育白書運動の呼びかけと粟田・有済両校の児童の生活実態が紹介されており、有済小学校にはその調査原票が現存している。教員の苦悩と模索が伝わり、具体的で興味深い。

 京都市では児童数減にともなって小中学校の統廃合がすすめられつつある。2004年、粟田・有済両校は白川小学校として統合したが、これは同和校としての連携を重ねてきたうえでの暫定統合であり、東三条にとっては再統一と評価できる。しかしここには「一般校」と同和校との統合を先送りにしたという側面があり、学校規模の観点からは近い将来さらに周辺校との統合をもとめられている。

 なお、本報告は第6回原田伴彦部落史研究奨励金の成果であり、論文は大阪教育大学教職教育研究開発センターの研究紀要『教育実践研究』に掲載される予定である。

(文責:廣岡浄進)