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2005.02.15
部会・研究会活動 <地域教育システムの構築に関する調査研究事業>
報告書 教育コミュニティづくりの理論と実践
-学校発・人権のまちづくり-

教育コミュニティの理論
-市民性教育の実現のために-

池田 寛



1 はじめに:act locally, think globally

 私たちは各地域や学校で行われている実践から多くのことを学んできた。個々の実践は、その具体的な状況の中で生じている問題の解決をめざして取り組まれており、その多くは必要に迫られた手探りの活動である。みずからの活動がどこに向かっているのか、何を実現すべきなのかということを、当事者たちも明確に自覚していないことが多いのである。しかし、そうした実践の中にこれまでの学校活動や地域活動の枠組みや限界を越えるものを見いだすことが少なくない。特に、すこやかネットの活動にはそういうことが多い。おそらく、人々が日々の活動を通じて現状を打破する何らかの道を模索しているからだろうか。

 私は、他方、世界的な動向に目を向けている。海外での教育改革や新たな教育実践としてどのようなものが現れているのか、世界の人々はいまという時代をどのように受けとめ、21世紀という時代をどう切り開こうとしているのか。日本の地域の実践に注目すると同時に世界の動向に目を向けていると、一見ばらばらに見える日本各地での実践の底流に流れている、ある方向への大きな流れ、さらに言えばある種の「理念」が浮かび上がってくる。個々の地域の実践はまさに手探りのその場その場の打開の積み重ねであるが、それを紡ぎ合わせ、世界の動向とつきあわせていくと、そこにある方向性を持った理念、いいかえれば目標とする教育の姿が見えてくるのである。

 それはいったい教育のどういう姿なのか。以下で述べることの多くは、ベラーらの一連の仕事、コミュニタリアンの思想、市民性教育(citizenship education)に関する提言などに触発されて考えたものである。なぜそういった著作や思想に惹かれたのかについて、説明しておく必要があるように思う。

 直接の契機は、いま世間を騒がしているいわゆる「学力低下論」である。経済学者が口火を切り、苅谷剛彦氏らの教育社会学者もその論争に加わって、学力低下に対する社会的な関心が高まっている。完全学校週五日制の実施、新学習指導要領による教育内容の削減、「総合的な学習の時間」の創設などが子どもたちの学力低下と関連づけて論じられている。子どもたちの学力が低下しているかどうかについては、苅谷氏らの調査結果である程度その現状が明らかになったとはいえ、学力をどう定義するか、学力低下の原因は何かといったことについては、まだ議論の余地が残されている。学力低下論やそれに煽られた世論が矛先を向けているのは、文部科学省の政策でありその教育改革路線である。その批判は的はずれではないし、学校教育の現状を鋭くついている点では評価できるが、日本の学校や学力をめぐる社会状況を考慮すると、学力低下論は、点数で示される学力や進学率といった観点で学校を評価する風潮を強めてしまうことになるのではないか。「ゆとり教育」路線を攻撃の的にしている学力低下論者は、むしろ、点数や進学率に背を向けている学校の現状こそが問題なのだと言うだろう。

 しかし私は、子どもたちに学力をつけるというのが学校の重要な役割であるということを認めつつも、学校の役割や教育の目的をそれだけに限定すべきではないと考えているし、学力向上という目標はあまりにも明確であり、人に訴えかけるものであるだけに、それに限定した議論ばかりが注目されることによって、学校教育が果たすべき別の側面が見失われるのではないかというおそれを持っている。学力低下論をめぐる議論の中で、学校の公共的な役割は何かという議論や問題提起があまりにも少ないのではないか。そういう問題意識を教育学者は持たなくなってしまったのではないかと思われるほど、真正面から学校教育の公共的な役割を論じたものがほとんど見あたらないのである。

 いま、あらためて学校とはどういうところか、学校教育の目的とは何かについて考えることが必要なのではないだろうか。その「基本」に立ち返って、この論考を書き進めていくつもりである。


2 個人主義と教育の問題

<1> 学校教育の個人的な目的と社会的な目的

 学校教育の目的をめぐって相対立する二つの立場が戦後の教育界で主張を繰り広げてきた。一つは、個人の自己実現という目的である。一人ひとりの子どもの能力の開発と個性の伸張、そしてそのことを通じた個人の社会的な可能性の開拓(たとえば経済的成功、社会的名声の獲得、芸術やスポーツなどでの卓越性の実現など)が学校教育の目的としてあげられる。二つ目は、社会の発展に寄与する人材の開発である。これを第一の目的の延長線上でとらえることもできるが、第一の目的が個人的目標の実現であるとすると、第二の目的は社会的もしくは国家的な要請として学校に期待されるものである。

 この二つの目的を区別する必要があるのは、個人の自己実現のすべてが社会的に承認されるわけではないからである。抽象的に考えれば、個人の能力や個性の開花が社会的な目標と対立することはないように思われる。特に民主的な社会においてはこの二つの目的は矛盾することはないと考えられがちだが、民主的な社会においても階層的、地域的、民族的な分化や序列が現実にあり、社会集団間の権力争いや支配-従属関係が存在している。支配的な地位にいるものは社会的に望ましいとされる価値を決定する力を有しており、学校教育にもその影響力は及んでいる。学校は支配的社会集団がその経済的・政治的・文化的支配力を行使する重要な場(arena)となっているという見解が、現代の社会科学では常識となっている。

 このように、社会的な目標の実現と一口に言っても、そこには支配的な集団の理想や価値が反映されており、すべての社会構成員が等しくそれを承認し支持するとは限らない。それどころか、民主的な社会であれば国家が社会的な目標を提示するときには、それによってみずからの文化や価値が抑圧される集団やそれに反対する政治的勢力があると考えるべきである。教育改革をめぐるディスコースの中で国家主義的な主張が幅を利かせ、国を愛する心を持ち出したり、平和維持活動での日本の国際的な貢献や日本経済の国際的な競争力を強調するかたちで、また、家庭の教育力や親の教育責任を強調するかたちで、国家主義が人々の精神構造を支配する動きが見られる。そのような社会的目標や国家的要請を過度に強調することに対しては、政治力学的な観点から個人の権利や自由を主張する人々が警告を発してきた。個人主義的、自由主義的な立場からすれば、国家が目標を定め個人の自己実現の方向を限定し、国民をそれに向けて動員することは許し難いことであるし、そのための装置として学校を利用しようとすることは承認できないということになる。それは、人格の完成という教育の目的を歪めるものであり、その目的を国家目標に沿って狭く限定してしまうことになるからである。

 教育のこの二つの目的の対立と葛藤が、つねに戦後教育の焦点となってきた。個人の自由や権利を尊重することが社会的目標や国家的利益と両立するのか、国際的競争力を高めるという国家戦略にとって個人主義的な思想は足かせであり規制すべきだ、社会的統合や国民的合意の形成という観点からは個人の自由や権利は弊害となる、等々。

<2> 功利的個人主義の思想

 国旗や国歌に関する議論をみていると、この二つの主張が対峙し妥協の余地のないもののように思われる。この「個人vs. 社会」という対立図式のなかで戦後の日本の教育は翻弄され続けてきたのである。しかしこの論争は、個人的な目的と社会的な目的をみごとに組み合わせた表現形式が歴史的に形成され、それが個人の生き方にも社会のあり方にも大きな影響を与えていること、そして、それが教育の危機をもたらしているということに気づいていないようである。その思想とは、「功利的個人主義」である。

 ロックをその始祖とする功利的個人主義の思想は、18世紀以降西欧社会に広まり、アメリカの社会思想の基軸となって資本主義世界を席巻した。その基本にあるのは、個人的な目標の追求が全体の豊かさや幸福をもたらすという思想である。私的利益の追求を全面的に是認する功利的個人主義が、さまざまな社会矛盾と社会病理を生み出していることをテーマとして、それにかわる価値の再発見と再創造の必要性を訴えたベラーらは次のように指摘している。

 「合理的で、私的利益に動機づけられた個人は、<エコノミック・マン>として出現した。つまり、こうした個人主義は、伝統的な階層と忠誠に代わって交易と交換が社会生活の色どりを決めるメカニズムとして働く競争市場の諸条件の下で、もっとも自然に生活することができる人間であると考えられていた」(『心の習慣』p.42)。

 手段と目標の関係を計算しつつ、自己の利益を追求する、このような功利的な個人に対して、自己の豊かな内面世界や自己実現にこそ価値があると考える「表現的個人主義」の伝統も出現した。しかしそれは、功利的個人主義の生き方を矯正するどころか、むしろ功利的個人主義を補完するような役割を果たした。つまり、職業的な世界に自己の充足が得られないと考えた人々は、経済生活や公的生活、さらには家族生活からさえも切り離された「ライフスタイルの飛び地」をつくり、考えや価値の同じ者どうし、気にいった者どうしで集まり、その中でこそ自己充足や自己表現ができると考えるようになった。ベラーらによれば、このようにして、功利的個人主義は経済的・職業的な領域に、表現的個人主義は私的生活の領域に、それぞれ適合的な場を見出すことによって棲み分けが行われているというのである。

 この二つの個人主義は重きを置く価値において、一方は経済的な成功や利潤の追求、他方は内面的な世界の充実という違いがあるが、個人の独立性や自律性を強調する点では共通している。公共的な生活やコミュニティでの相互依存よりも自律した個人に重きを置き、ひたすらみずからの自己実現、そのための手段と目標の計算に専心しようとするのである。このことはトクヴィルが150年以上も前に指摘していることである。かれは個人主義がエゴイズムに堕してしまう危険性を孕んでいることを見抜いていた。「利己主義は、自分自身の熱情的な誇張的な愛である。それは人間を自分ひとりだけ結びつけるようにさせるし、そして何ものにもまして、自分を偏重させるようにする。・・・個人主義は、市民そして同類者たち大衆のうちで自分を孤立させるようにさせ、そして自らの家族とその友人たちともに、その大衆から離れたところにひっこませるようにする。そのために、各市民はこのようにして、自ら使用する小社会をつくりあげたあとで、自ら進んで大社会をそれ自体にまかせ放任するのである」(『アメリカの民主政治・下』、p.187)と述べ、エゴイズムが個人主義と隣り合わせていることを鋭く指摘した。

 このような生き方とその追求が、アメリカ社会を危機に陥れてきたのである。ベラーらによれば、それは、「個人的な安楽と安全を追求するだけで善い人生がもたらされ、間接的に、周囲の人々の生活も豊かになるという、魅力的だが、あてにならない考え」(『善い社会』P..89)であり、そのような生き方を誰もが追求することになれば、社会全体の豊かさや幸福が実現されるどころか社会は分裂してしまうことになると警告を発している。

 「個人主義の遺産は私たちに、共同善などというものはない、あるのは個人的善の総和のみだ、と教えた。だが、複雑で相互依存的な世界においては、市場の専制の下にのみ組織された個人的善の総和は、しばしば共同悪を生み出す。そして結局、私たちの私的満足でさえもが浸食されることになる」(『善い社会』99頁)

 この指摘は、自分のライフスタイルを維持し守ろうとして自らの城を築いた(たとえば「マイホーム」という城)にもかかわらず、つねに外部からの脅威にさらされ続けている現代人の不安を鋭くついている。私的目標の強迫的追求は、「公私の生活両面において、解決をもたらす以上に問題をもたらしてきた」(『善い社会』p.83)のであり、そのような状況を資本主義社会は共通して抱えているのである。

<3> 功利的個人主義の教育観

 功利的個人主義的な生き方が社会に浸透することによって、当然、学校の役割も変化した。日々の生活を送るのに必要な読み書き算を教え、まわりの人々とともに生きるための技法や道徳を教えていた学校が、立身出世のための手段となり、学校で教えられることは将来職業についたときに役立つ知識であると考えられるようになった。

 職業観の変化があったことも書き添えておかなければならない。いわゆる「コーリング」から「プロフェッション」あるいは「キャリア」への変化である。コーリングはまさに神から与えられた仕事という意味であり、コーリングということばには、その仕事をなすことによって個人は神への奉仕、世俗的には社会への貢献を行うという意味合いがあった。仕事に没頭するとか職業において自己を磨くというのは、他者とのつながり、自己と社会とのつながりを確認する行為と考えられていた。

 「コーリングにおいては、自己はよく訓練された技術と適切な判断力をもつ者どうしの共同体の内に置かれる。この共同体は、活動によって得られる結果や収益ばかりでなく、活動自体に意味や価値があると感じられている。しかも、コーリングは個人を彼の仕事仲間へと結びつけるばかりではない。コーリングは、個人をいっそう大きな共同体へと、各人のコーリングがみなの利益に対する貢献となるようなひとつの大きな全体へと、結びつける。」(『心の習慣』p.76)。

 職業がコーリングと考えられていた時には、職業そして個々の仕事に道徳的な意味合いが込められていたが、功利的個人主義的な職業観が浸透するにつれて、仕事とは金を稼いで生計を立てる手段だと見なされるようになった。産業資本主義の発展、営利企業の膨張、官僚機構の拡大にともなって、個人の人生は大きな社会機構の中に組み込まれ、職務において能力を発揮すること、職務遂行において他者と競争し勝ち抜くこと、職業階梯を一歩一歩登っていくことが、個人の人生において重要な価値をもつものと考えられるようになっていった。それに反比例して、仕事仲間と共同で成し遂げた成果をともに称え喜び合うということはなくなり、個人の技能的卓越を共同体の幸福や福利と結びつけて評価することもなくなっていった。このように、功利主義的な考え方は、個人的達成と個人の自己実現を称揚し、かつてあった個人の公共的な役割、いいかえれば共同善(common good)への個人の貢献という観点から、個人と社会の関係をみる伝統を浸食していった。

 職業や仕事についての功利的個人主義的な解釈が社会全体に行き渡るにつれて、家庭や学校での教育についての考え方もそれに沿ったものに変わっていった。教育を受けるということは、将来つくことになる職業に対して準備することであり、職業における地位を少しでも有利にするという観点から、学校で身につける知識や技能が評価され、学歴が重要であると考えられるようになったのである。学校生活のなかでは、知識や技能だけでなく、スポーツや芸術の才能や友人たちとつきあうための社交の技術も磨かれる。しかしこうした学校教育の成果は、個人的な達成と個人的な目標実現のための手段とみなされるようになり、人々は、そのような個人的目的以外の学校教育の目的について真剣に考えることをしなくなった。

 個人的な達成と目標の実現を支援し可能にするのが学校教育の目的であるというのは、個人の自由や権利を重視する個人主義、自由主義の思想からすれば当然のことであるが、学校が果たすべき役割はそれだけなのだろうか。ロックは、個人が利潤を追求することが全体の豊かさや福利の増進に寄与すると考えたが、それは全体に対する自己の責任を自覚した個人を前提にした主張であり議論であって、歴史はそれを実証していない。それどころか、われわれは、社会的な責任や義務を考慮せず、自己の卓越性や利潤といった個人的目標の追求に没頭する人々の姿を目撃している。個人の欲求の充足は必ずしも全体すなわち社会の福利の増進を保障しないというのが、この数十年の歴史的経験の結果としてわれわれが受け取ったものではないだろうか。

 その歴史的反省を踏まえていないかのように、教育に関わる内外のディスコースの振り子は自由化やプライバタイゼーション(私事化)の方向に揺れている。自由化やプライバタイゼーションの路線にそってアメリカで具体化された学校選択やチャーター・スクールが日本にも影響を与え、それらが教育改革の切り札であるかのような主張が繰り広げられている。大学生や子どもたちの学力低下問題が社会的な関心を集め、国民の知的レベルや国としての国際的な競争力の低下につながるといった声も日増しに高まっている。学校選択や学力低下論は、ぬるま湯に浸かっている教育現場に対するカンフル剤としての意味はあるだろうし、教師の独善的な教育観を是正するといった効果はあるかもしれない。

 しかし、歴史的文脈も考えてみなければならない。日本は1960年代以降(明治時代までさかのぼるべきかもしれないが)教育を経済発展の重要な手段として位置づけ、それが成果を収めてきた国であり、学力を身につけ学歴を得ることによって豊かなで安定した暮らしができるという価値観が国民の中に浸透した典型的な社会である。学力や学歴は将来の社会的地位や名声や収入に結びつく手段という見方が強く、そして、それがはげしい受験競争を生み出してきた。このように、日本ではいわゆる功利的教育観が優勢で、それ以外の教育観は脇に追いやられたり、そんなことには考えも及ばないといった状況さえある。 そういう社会的・歴史的文脈がある中で、教育に市場原理を導入し、学校選択の自由を提案したり、学力をつけることを学校の役割として強調するとどういうことになるか。功利的教育観を信じている多くの人々は諸手をあげてそれを支持するだろう。しかし、その声にかき消されて、「いっしょに生きている人々のために」とか「仲間とともに」という声は聞こえなくなってしまう。


3 教育の公共的目的

<1> 民主主義の基底にある社会資本と共同善

 「生きる力」が教育改革のキーワードのようにして使われている。しかし、このことばは山本七平のいう「空体語」としての特徴がある。だれもその意味を明確にわかっているわけではないが、それを使えばだれもが納得したふんいきがつくり出される、そういうことばを山本は「実体語」と区別して「空体語」と呼んだ(『日本教について』23-35頁)。「生きる力」は、明確に定義されることなく、教育関係者の間でふんいきことばとして便利に使われているが、教育現場が混乱し、学力低下論による反撃を受けて文部科学省のいわゆる「ゆとり教育」路線が動揺を来している原因が、このあいまいさにある。

 「生きる力」には、個人が自己の目標の実現のために生き抜いていく力もあれば、他者のために、また、他者とともに生きていく力もある。この二つの力は一致することもあるし、相反することもある。個人的な目標を追求していけば、それは結果として他者の利益や福利の増進につながるのだというのが功利主義の考えであるが、すでに述べたように、その前提は歴史の経過の中で裏切られているのである。個人は他者から切り離されて生きていくことはできない。他者との関係の中で人間は生きていくことを運命づけられているのだが、功利的個人主義は、他者との関係を競争的で自己と対立的なものとしてとらえ、他者にじゃまされることなく、また、他者から隔絶して、自分の計画や筋書き通りに人生を実現していく個人を理想像として思い描いてきた。学力や学歴の獲得はまさにこのような功利的人生観にふさわしい目標となる。それは、他者とは関わりなく追求できるものであり、また、他者との競争において達成される目標だからある。

 かくして学力や学歴は、功利的な個人にとって人生の目標であるとともに、行路を歩んでいくときに自己を確認するための里程標ともなる。子どもが学校で身につける知識や技能としての学力は学校教育の目的として重要なものであり、それを否定することは学校の存在理由を否定することに等しい。学力や学歴を身につけ職業生活に必要な知識や技能を獲得することによって、個人は経済的な安定と幸福を手に入れることができるし、豊かな文化的生活を享受することもできる。しかし、学力を重視する人々は、数学(算数)や理科の点数をよく話題にするが、芸術や体育といったものを話題にすることはほとんどない。また経済的・技術的な競争力といった観点から学力が論じられることはあっても、環境保護や福祉の増進といった観点から学力問題が論じられることはない。

 このように、経済発展や国家的目的の追求のために学校があるという学校観は、学力の内容を狭く限定し、学校が果たすべき役割を矮小化しかねないのである。人間が生きていく上で学力や学歴はその一部をなしているにすぎない。

 アメリカでも1980年代以降、学力重視の学校改革論が雪崩を打ったように噴き出し、そのような潮流の下で教育についての見方がしだいに「近視眼的」になっていった。そうした動向を、フェンスターマッハーは次のように批判的に紹介している。

 「次の世代の労働者を国際的な競争に向けて準備させるべきだとか、数学や理科といった高い価値を持った教科で世界一になるべきだとか、学校で習うものに世界基準を設けるべきだといった多くの声を耳にする。(それに対して)近隣、州や連邦レベルのいずれでもいいが、市民の参加や民主的なコミュニティの建設や維持について語られるのはほとんど聞いたことがない。アメリカの現代の国家的な改革運動は、民主主義の理念や理想に注意を払うことがあまりにも少ないだけでなく、教育の理念や理想についての関心はさらに低いのである。」(Fenstermacher,1994 in Goodlad,1997.P.55)

 しかし1990年代に入って、競争、個人の選択重視、公共領域の私事化を主張する新自由主義に対抗するように、民主主義の価値を見直す論議がさかんに行われるようになり、多くの著作が現れた。その論戦に参加した一人であるオークショットは、民主主義を再生させるためには3つの道徳が不可欠であると述べている。一つは、「個人性の道徳」であり、分離し独立した個人が互いに調節・調整し合うのが道徳の基本とされる。二つ目は「コミュニティのつながりの道徳」である。その道徳のもとでは、個人はあくまでコミュニティのメンバーであり、その活動はいかなるものであれすべて共同の活動として理解される。その道徳の基本は道徳的行為についての流儀を身につけることである。なぜなら、共同的行為の作法というのは、人間に本質的に備わったものではなく、学ばれ獲得される技法だからである。第三の道徳は「共同善の道徳」である。この道徳において人間は活動の中心となる独立した存在とみなされるが、その個人性が人類によって構成される「社会」の利害とぶつかり合うような場合には、その行為は認められない。一つの共通の営みにすべての人が携わっているのであり、道徳とはそのための条件を達成し維持する技法なのである。(Oakeshott, in Goodlad, P.23)

 アメリカの著名な教育学者であるJ.I.グッドラッドも、社会的成功や生きがいや自己実現といった個人的な目標実現に人々がとりつかれていることが、社会的な連帯感の低下を招き教育を混乱に陥れている最大の原因であると考えている一人である。かれによれば、教育には市民としての義務に対する準備と善い生活を送るための準備という重なり合いかつ対立し合う二つの目標があり、この個人性と市民性のあいだのバランスをとるという課題を教育はつねに背負っている。しかしいまや、個人的な目標追求や個人的な自己実現に人々がこころを奪われるようになり、人々の間の相互信頼と相互扶助という「社会資本(social capital)」の土台は切り崩され、共通の価値や規範の伝達と維持、共生の作法としての道徳、個人が献身し貢献する対象としての「共同善」は社会から消え失せようとしている。

 グッドラッドは、現代人が「自分の生活」「自分の自由」「自分の幸福の追求」にとらわれているのは、幼児的自己愛から抜け出せていないからだと指摘している。自己愛から脱却できず、「自滅的な自由」を追求しているのが現代の人間だというのである。そのような自由の追求はやがて社会を崩壊させ、自己の存立さえ危うくするだろう。個人と社会の調和を取り戻すためには、人々が自己へのこだわりから脱却した「自己超越(self-transcendence)」が必要である。自己超越とは自己を越えた存在、たとえば家族やコミュニティや人類共同体に対する意識を持つことである。自己の目標の追求だけでなく、社会や全体に対するコミットメント(貢献、献身、関わり)の意識がなければ社会の存続は不可能である。

 家族から人類共同体にまで広がるコミュニティへのコミットメントこそが文明社会を成り立たせる「人間的条件」であるが、現代社会はその「人間的条件」を喪失した状態にある。その喪失は、「地理的な文脈そして人間的な会話の文脈といういずれの社会的文脈にも、自己を安全かつ快適につなぎ止め停泊させることができない、絆の喪失である。」この喪失は二重の喪失である。すなわち、一方において地理的に区切られたコミュニティが失なわれ、もう一方において共有された信念の本質的なところとつながっているという感覚が失われてしまったのである(Goodlad, P.46)。グッドラッドは、このような状況があるからこそ、民主主義を支える「人間的条件」を教育を通じて再生させなければならないし、教育はその使命と役割を担うべきであると主張する。かれは、民主主義と教育の関係についてのバーバーの見解こそ、アメリカ教育の再生につながるものだと確信している。

 「職業につくことや専門職となるための訓練-これらはかつて奴隷の技芸と呼ばれたものだが-を重視する教育は、私的なものと言えよう。しかし、公教育は一般的で、すべての者に共通なものでなければならず、したがって、原初的な意味で"自由な"ものでなければならない。このことは、公教育が市民性のための教育であるということを意味する。・・・すべてのアメリカ人の権利や自由と同様に、その自律性や尊厳も、民主主義が生き延びるかどうかにかかっている。それは、単に民主主義的な政治というだけでなく、民主的な市民社会と民主的な市民文化にかかっているのである。民主主義に至るただ一つ道がある。それは教育である。そして、民主主義のもとで教育者に課せられた最も重要な仕事は、自由とは何かを教えることである。」(Barber, P.15)

 「きっと、民主主義なくしては、自由も平等も社会正義も何もないだろう。そして、市民的アイデンティティや民主主義的な責任感を育む市民と学校がなくなれば、民主主義もなくなることだろう。」(Barber, P.224)

<1> 教育の公共的目的と学校の役割

 ベラーらは、「今日、責任ある市民は次のように問うべきである。私たちは自己の善にのみ責任があるのか、それとも共同善に対してもまた責任があるのか、と」(『善い社会』P.83-4)と問いかけているが、その問いかけは、市場原理の導入や選択の自由の拡大が具体的な政策として実現されつつあるいま、公共的な制度としての教育はどうあるべきかという問いかけとしてわれわれに向けられていると言えよう。

 国際的な競争力をつけるために学校教育はどうあるべきか、個々の学校を競わせて学力を向上させるための方策として有効なものは何か、生徒たちを高い水準に向かわせるインセンティブは何か、といった教育改革をめぐる議論が内外で高まっている。学力の低さは国民の教養のレベルの低下をもたらし、社会の解体を招く危険性を孕んでいる、という議論が社会的な危機意識を煽っている。それらの議論は、教育における効率性を高め、産業界の要請に応じた人材の育成という観点からみれば当然の主張であり、ぬるま湯につかっている教育現場に対するカンフル剤としての働きをそれらに期待する向きもある。

 しかし私には、それ以上に、そのような主張が勢いを増すことによって、教育が担うべき「人間的条件」の確保という課題が後景に押しやられてしまうのではないかという危機感が強い。

 学力や学歴はそれらの基礎となるものであるという言い方がされるが、学力や学歴によって人間として生きていく上で必要なものをすべて得られるわけではない。人間が生きていく上で必要なことは、「知識、理解、本当の自分らしさ、徳性、人類の過去・現在・未来において自己がどこにいるかという感覚などが持続的に拡大していくことである」(Fenstemacher、in Goodlad p.10)。いいかえれば、社会や自然についての理解、文化・芸術の享受、感情表現の方法の獲得、他者との相互交流や相互依存の関係の確保、自己の歴史的連続性の感覚の達成といったことが、人間として生きていく上で必要とされているのである。そして、教育が子どもや若者を大人へと導くものだとしたら、これらすべての課題に応えるものでなければならない。

 バーバーは民主主義が存続する上で学校が重要な役割を果たすと述べたが、学校にこれらすべてを求めるとしたら、その課題に押しつぶされて学校はパンクしてしまうだろう。しかし、学校に過大な期待を寄せる人々は少なくない。学校を民主的な場とすることで、社会の不平等や抑圧構造を変えていこうとする人々(たとえば批判的教育学の支持者たち)は、その重大さに気づいていないようである。

 社会に不平等があり、学校がその社会的不平等の再生産の場になっていることは、これまでの研究から明らかにされていることである。学校が不平等の再生産をしないために、学校における権力構造を反省的にとらえ直し、これまで抑圧されていた立場の生徒の「声」を汲み上げようとする姿勢は評価しなければならないし、そういう学校の努力がなければ民主的な社会の実現は不可能だろう。学校を民主化しようとする運動を多くの教師が進めてきた。それらは成果をおさめたものもあるし、そうでないものもある。教師の力量によってその成果にちがい生じたことは確かであり、力量を高める努力が教師に求められてきた。しかし、そういう学校内の努力だけでは、やはりその意図は「絵に描いた餅」になってしまうのである。

 学校を民主化しようとする勢力には、教育(education)と学校教育(schooling)についての概念的混同があるように思う。かれらも、国際的な競争力に打ち勝つ原動力を学校に求める人たち同様、学校教育すなわち教育であるという思い違いをしているのである。そのために、学校を民主化すれば社会の民主化もはかられるはずだと思いこんでいるのである。しかし、学校の影響力を過大評価してはならない。グッドラッドは、「年間1000から1200時間の授業を子どもたちに行うだけでは十分ではない。それを年間1500時間かそこらに増やしても-しばしばそういう提案がなされるが-やはり十分ではない。たとえ、その公共的な目的が理解され、力強く支持されたとしても、学校だけでは必要な教育を行うことはできない」(Goodlad, P..41)と述べている。

 日本でも学校完全週五日制の実施にともなって、子どもたちが学校で授業を受ける時間数は小学校で年間945時間(4年生以上)、中学校で年間980時間になった。それに対して、小・中学生の半数近くが一日3時間以上テレビを見ているという調査結果がある。毎日3時間見続けるとテレビ視聴時間は年1100時間近くになる。単純に時間数だけで比較すると、その子どもたちは授業を受けている時間よりもテレビの前にいる時間のほうが長いのである。教師が目の前にいる時間は、その子どもの生活の一部にすぎない。教師の知らない、もしくは、教師の手が届かない子どもの生活のことを、教師はどう考えるべきだろうか。


4 教育とコミュニティ

<1> 教育の社会文化的文脈

 いま、学校選択制に代表される新自由主義の主張が学校改革の切り札として注目される一方で、「義務と責任」の倫理の再構築とコミュニティの価値の再認識を掲げて、新たな社会構成の原理を探求しようとするコミュニタリアンの主張が支持を集めつつある(エツィオーニ『新しい黄金律』、ギデンス『第三の道』)。しばらくは、この二つのディメンジョンの力学の上で現実的な教育改革が具体化されていくものと予想されるが、以下では、後者の文脈の中で懸案となっているいくつかのテーマについてふれておくことにしたい。

 民主的な社会の建設や維持において学校は重要な役割を担っており、公共的目的を追求し、自己超越的な価値観を人々に浸透させてきた公的制度が衰退し消滅しつつあることを考えると、学校への期待はますます大きくならざるをえない。しかし一方で、学校はそのような過大な期待をかけられ困難な課題を押しつけられて、窒息しかかっている。われわれは、教育のあり方を根本的に見直さなければならない地点に立っている。

 見直さなければならないことの一つは、個人の発達や成長をどう考えるかということである。世間の親は子どもに学力を身につけさせ個性を伸ばしたいと願っており、それを学校に期待している。学力を身につけ学歴を獲得していけば、安定した職業につける可能性が高くなると考えるからである。また、個性を磨くことによって、それを生かした職業につくこともできるし、人生を豊かにする可能性も広がると考えるからである。しかし、文明や社会からまったく孤立して生きている人間はいない。自立的で個性的な自己も文明や文化の産物であることに変わりはない。社会的な絆やつながりから切り離された個人を想定することすら無理があるのだが、小学生の頃から塾通いをしている子どもたちが増えていることに見られるように、そのような個人そして個人的な目標追求をよしとする社会的風潮があるように思う。

 教育は個人的営みではない。社会文化的な文脈から無縁な教育や個人の発達などありえないのである。隔絶した個人の虚構性は、デューイが一貫して批判してきたものである。かれは次のように述べている。

 「実は、あらゆる個人は、社会的環境の中で成長してきたし、また、つねに成長しなければならないのである。彼の反応が次第に知的になるのは、すなわち意味を獲得するのは、一般に受け入れられている意味や価値という媒質の中で彼が生活し行為するからにほかならない。社会的な交わりを通して、つまり、いろいろな信念を体現しているいろいろな活動に参加することを通じて、彼は次第に自分自身の精神を獲得していくのである。全く孤立した自我の所有物という精神の概念は、全く真実に反する考えである。自我は、彼のまわりの生活の中に事物に関する知識が体現されていれば、それだけ精神を獲得するのであって、自我は、自分ひとりで知識を新たに構築している個々独立の精神ではないのである。」(『民主主義と教育・下』p.153)

 守らなければならない社会的なルールとは何か、人と協調したり協力し合っていくためには何が必要か、まわりの人々は自分に何を期待しているか、いま住んでいる地域にはどんな問題があるのか、人のために自分は何ができるか、といったことを考える機会と体験が子どもには必要である。自己以外の人々といっしょに生活しているかぎり、生きていくための課題に繰り返し直面するはずである。それは、社会的存在としての人間が直面し直視しなければならない課題であり、他者と共生してくために身につけなければならない「道徳作法(moral arts)」である。一人ひとりの個人がそのような課題に向き合ったり道徳作法が大事だと考えることが、社会資本の基礎となり共同善の形成につながっていくのである。コミュニティの中で個人は他者と相互依存しあいながら生活しているのであり、その相互依存関係を通してまわりの人々と共有し合う価値や規範への自覚が生まれてくる。そして、また、そのような環境のなかでこそ、人々の間での相互信頼と相互扶助の道徳はその生命力を維持することができるし、有効に働くことができるのである。

<2> 教育的コミュニティの形成

 個人的目標の追求だけでなく、社会資本や共同善を維持・形成し、社会を構成する一員としての自覚と責任を一人ひとりの子どもにもたせることが、学校教育の重要な課題であるということが確認されたとして、果たしてその課題は学校だけで達成できるのだろうか。これが第二に考えなければならないことである。

 個人的目標の実現を重視する主張は、学校の課題のうちの一面しか表現していないという問題がある。また、社会の不平等や病理の解決を学校に求めたり、社会的統合や連帯という課題に応えることを学校に期待する主張の中には、学校と社会の関係についてまちがった考え方が含まれている。後者の問題は、子どもの発達とその社会文化的文脈との関係から導き出されてくるものである。つまり、子どもの発達や教育が、単なる個人的営みではなく、社会文化的な文脈の中に埋め込まれ、コミュニティの社会資本や共同善と密接に関連しながら成し遂げられるものだとすれば、学校教育によって社会問題を解決したり社会資本を蓄積するというのとは逆の考え方をするほうが自然だということになる。グッドラッドの次の主張はそのことを指摘したものである。

 「健全な国民は健全な学校をもっている。地方的かつ国家的な文脈が健全になれば、学校も健全になる。学校は社会を映す鏡である。学校が社会を動かすのではない。学校を、特に個人的な善のために強力に機能させようとすれば、個人的な目的のための学校開発が行われることになり、学校の公共的な目的は見失われる。教育は学校から消え失せる。学校は共同善のために貢献することをやめ、そして、そのことによって、教育のための安全な停泊地となることをやめる。」(Goodlad, P.17)

 「健全な文化があるところには健全な学校がある。人々の教育に意義ある貢献をなす学校は、教育的コミュニティ-その中で成長したものには民主的道徳作法(democratic moral arts)の中で培われたものが備わっているようなコミュニティによって維持される。そのようなことは学校だけにまかせるべきものではない。また、学校のもつ力も無視すべきではない。多様で重層的な教育的可能性をもつ諸力が動員されなければならないのである。」(Goodlad, p.65)

 グッドラッドは、民主的な社会の形成や維持において学校が重要な役割を担うことを認めると同時に、学校教育が機能する文脈としての社会的環境そのものが「健全」であること-豊かな社会資本が蓄積され共同善の維持と創造に人々の関心が向かうような文化を保持していること-が、「健全な学校」を成り立たせるための前提条件であると主張する。 同様の主張はベラーらの著作の中にも見られる。

 「私たちに必要なのは、人生に立ち現れる一切のものが教育を行うという古典的教育観を取り戻すことである。・・・真の『教育社会』とは、善い学校があるというだけのものではない。それは共同善に対する健全な意識を、社会のモラールと公共精神を、そして自己の文化的な過去についての生き生きとした記憶をもつ社会である。学校はそうした社会に貢献することはできるが、自らそれを生み出すことはできない。学校任せにしていてはいけない。真の『教育社会』が可能となるためには、社会のあらゆる制度の民主的変容が不可欠である。」(『善い社会』p.182)

 教育は社会のいたるところで生じる営みであり、学校の内と外の教育的営みが反響しあうコミュニティにおいてこそ健全な教育が可能になる、とグッドラッドは考えた。そして、そのようなコミュニティを「教育的コミュニティ(educative community)」と呼んだ。

 教育は学校の中だけで行われるものではないにもかかわらず、功利的個人主義と市場原理にもとづく教育観が優勢になるにしたがって、学校外の教育作用や教育的営みに人々は眼を向けなくなり、学校教育にその関心が集中するようになった。そのことは、学校の目的を狭くとらえることによって、バーバーの言うような民主主義の培養器としての学校の役割を軽視するという結果を招いただけでなく、社会全体の、そして、一人ひとりの、教育に対する責任意識の低下をもたらしたのである。教育という営みは、家庭の中に閉じこめられ、学校の中に閉じこめられてしまった。デューイはすでに90年も前にそのことを警告していたのである。

 「学校の外の環境において効力をもつ教育的諸条件から学校が乖離すると、学校は必ず社会的精神の代わりに書物的な、疑似の知的精神をもってくることになる・・・学習をこの種の孤立した課業とみなすことが、共通の関心や価値をもつ活動に参加することから生ずる社会的意識を排除する傾向をもつとすれば、孤立した知的学習に注がれる努力はそれ自体の目標と矛盾することになる。」(『民主主義と教育・上』p.71)

 このようなデューイの警告にも関わらず、教育という営みを学校の中に封じ込める風潮はその後も進行し続けた。そのような状況の下で、教育だけにとどまらず社会そのものの基盤も堀り崩されつつある。このような状況に対して、グッドラッドは、学校とその社会文化的な文脈の関係を再生させるために、教育的コミュニティを提唱しているのである。

 「教育の公共的で市民社会的な目的のためには、家庭や学校による教育よりもはるかに多くの方法やスコープが必要である。いま求められている市民性の観点からすると、家庭や学校を超越し、そこからさらに広がるような教育システムを考えなければならないだけでなく、教えるということをすべての市民の責任と考えなければならない。各人がみずからを、単なるサービスの対象者や利用者と考えるのではなく、包括的な教育伝達システムの一部だと考えるべきなのである。」(Goodlad, P..66)

<3> 学びのつながりと広がり

 教育的コミュニティの発想の原点はデューイにある。教育とは、「経験の意味を増加させ、その後の経験の進路を方向づける能力を高めるように経験を改造ないし再組織すること」であり、経験の意味を増加させるためには「われわれが従事する諸活動の関連や連続をますます多く認知すること」(『民主主義と教育・上』p.127)が必要だと考えたデューイは、経験のつながりという観点から学びの本質と社会のあり方を考察した。人間の経験は外からの刺激を受けとめるだけの受け身的な活動ではないし、また、まわりとの関係から切り離された個人的行為でもない。個人による対象に対する働きかけとそれに対する対象からの反作用の諸結果を、関連づけ、連続的なものとして認識することが、学習と呼ばれる行為なのである。

 「単なる活動は経験とはならない。それは分散的であり、遠心的であり、浪費的である。試みとしての経験は変化を伴う。だが、変化は、その変化から生じた結果という反作用と意識的に関連づけられるのでなければ、無意味な変転にすぎない。活動がその結果を被ることになるまで続けられると、つまり、行動によって引き起こされた変化が跳ね返ってわれわれの中に変化を引き起こすと、単なる流転にすぎなかったものに意味が詰め込まれる。われわれは何かを学習するのである。」(『民主主義と教育・上』p.222)

 教育の目標は、このような経験をやりとりする過程に参加する「社会的に有為な能力」を育てることに他ならず、それは、「自分自身の経験を他人にとってもいっそう価値のあるものにするすべてと、他人の価値のある経験により豊かに参加することができるようにするすべてのもの」(『民主主義と教育・上』p.194)を意味する。そのような能力は、他の人々との共同の活動に参加することによって獲得されるのであり、そういう要素を欠いた学校での学習では得られない。共同の活動においてこそ、「各人は、自分のやっていることを他人のやっていることに関係づけて考え、また、他人のやっていることは自分のやっていることに関係づけられる」(『民主主義と教育・上』p.57)からである。

 このように考えるデューイにとって、学校がまわりの社会から隔絶し孤立することは人間としての学びを否定することに等しい。社会そのものが、共同の活動への子どもの参加を促し、他者と関心を共有することを促すような特質をもち、学校における学習経験が学校外での共同的な経験と連続性を保っているときに、社会的に有為な能力が培われるのである。

 以上のことから、デューイにとって学習と民主主義とは表裏一体のものとなる。かれにとって、民主主義は単なる政治形態ではなく、それ以上のものである。それは、「共同生活の一様式、連帯的な共同経験の一様式」なのである。そのような共同生活を通して、人々は関心を共有し、自分自身の行動を他の人々の行動に関係づけて考え、また自分自身の行動に目標や方向を与えるために他人の行動を熟考するようになるのである。また、このことが社会が民主主義的であるかどうかをはかる基準ともなる。人々のあいだで「意識的に共有している関心が、どれほど多く、また多様であるか、そして、他の種類の集団との相互作用が、どれほど充実し、自由であるか」(『民主主義と教育・上』p.136)が、社会を判断する基準となるのである。

<4> 市民性教育の展開

 ところが、そのような自己と他者の行動の関係づけや、自己と対象との相互作用を連続的なものと把握し理解する行為が遮断されることが現実にはしばしば起こる。階級や民族や国家や性別などによって人々が隔てられ、経験の自由な交流や交換や伝達が妨げられるのである。このような社会的障壁は、他者の境遇や窮状に対して無関心な態度を助長し、利己的な利害関心の追求に人々を没頭させることになる。デューイは、そのことが民主主義社会の発展を妨げる最大の要因であると見ていた。

 「ある集団が、自己を孤立させて、他の集団と十分に相互作用することができないようにするような『ある独自の』関心をもち、そのため、その集団の主要な目的が、より広い諸関係を通じて自己を改革し、進歩することではなく、それがすでに獲得しているものを防衛することであるような場合には、つねに党派や派閥の孤立や排他性という気風が見い出されるのである。それは、互いに孤立している国家を特色づけ、家庭内の私事を、より広範囲の生活とは何の関係ももたないかのように、分離する家族を特色づけ、家庭や地域社会の関心から切り離されている学校を特色づけ、富者と貧者、教養ある者とない者との差別を特色づける。本質的な点は、孤立状態は、生活の硬直や形式制度化を助長し、集団内部の静的で利己的な理想を助長する、ということである。」(『民主主義と教育・上』p.139-140)

 社会的な分裂や集団相互の間の障壁は、デューイの時代と比べ緩和されてきたとは言えない。社会階層間、人種・民族間、宗教集団間の溝は一層深まり、社会の亀裂はますます深刻さを増しつつある。本論では、教育の公共的目的について論じ、共同善への自覚や社会資本の形成と教育との関係について述べてきたが、そのためには、現実の社会にあるさまざまな社会的障壁に対する認識が教育的営みの中にしっかりと位置づいていなければならない。そうでなければ、共同善にしろ社会資本にしろ、抽象的な理念に終わってしまうだろう。「人々を他人の利害に対して無感動にする社会階層の柵を打破することに、積極的に関係するところの精神の社会化」(『民主主義と教育・上』p.194)が、教育の公共的目的のもう一つの面とならなければならないのである。

 この点を、1990年代の教育論、特にプライバタイゼーションや市場原理の導入に抗して、民主主義の実現と学校の役割を論じた、バーバーやグッドラッドなどの主張ははっきりとその射程に入れている。新自由主義者の主張が学校教育を席巻するようになれば、「持つ者と持たざる者」の格差はますます拡大し、人種・民族間の亀裂はますます深まることになる。そうかといって、多文化主義者のように、多様な文化や価値を提示さえすれば、異なる文化やアイデンティティに対する理解が広がるだろうという楽観論に組みすることもできない。必要なのは、置かれている環境と自己とを結びつけて、環境の中にある社会的障壁やそれがもたらす矛盾や弊害に向き合うこと、そして、「関わり」を持ち続け、社会的障壁をなくしていくために必要な「干渉」を行う、当事者意識である。デューイの次のことばはそのことの重要性について述べたものである。

 「われわれは、単なる知的傍観者として結果を予想するのではなく、その結果に関わりをもつ人間として結果を予想するのだから、その結果を産み出す過程に関与する関係者なのである。われわれは、この結果か、またはあの結果をもたらそうとして干渉するのである。」(『民主主義と教育・上』p.165)。

 最近、社会的分裂と統合に対して教育は何ができるかという問いが、世界各国で大きなテーマとして浮上しつつある。「教育を通じて、国家的にも地方的にも政治文化の変革以上のものをわれわれはめざすべきである。人々がみずからを、政治生活に影響を与える意志と能力と素養を身につけた、活動的な市民であると考えるようになることが大切なのである。市民性教育の背景にあるのは、一連の関連した危惧、特にわれわれの民主主義と社会資本が浸食されつつあるという懼れである」(Potter P.1)とポッターが指摘している状況を多くの国が抱えている。その状況の下で、「市民性教育(citizenship education)」「サービス・ラーニング(service-learning)」「活動学習(active learning)」などを、学校教育に組み込み展開する国が増えつつあるのである。(Lawton, D. Cairns, J. & Gardner, R.(eds.) 2000;Potter 2002;Askew, S. & Carnell, E. 1998;Bentley, T. 1998)

 アメリカでは1990年代に入って高校以下の学校や大学で「サービス・ラーニング」をカリキュラムに組み込むところが一挙に増えたが、青年や子どもの社会参加や貢献体験を促進するためにアメリカ政府が1990年に制定した「ナショナル・コミュニティ・サービス法」(1993年にその内容をさらに強化した「ナショナル・コミュニティ・サービス・トラスト法」が制定された)が、この現象の引き金となっている。

 サービス・ラーニングとは、「若者たちが、周到に組織されたサービス経験に積極的に参加することを通じて、学びかつ発達する方法」と定義されている。サービス・ラーニングの要件としてあげられるのは、現実のコミュニティのニーズに対応していること、学校とコミュニティの協働による協力のもとで行われること、教科のカリキュラムに統合されていること、実際のサービス活動の間に子どもや青年がしたり見たりしたことについて、考え、話し、書くための時間が割り当てられていること、教科の学習で新たに獲得した技能や知識をコミュニティの現実の生活状況の中で使う機会が与えられていること、学習を教室を越えたものへと拡大することによって学校で教えられたことを豊かにすること、他者への思いやりの感覚を発達させるようなものであること、などである(Wade, ed. p.19-20)。

 サービス・ラーニングの提唱者の一人であるバーバーは、「サービス・ラーニングに基礎づけられた市民教育は、市民の中にある責任転嫁や代議制民主主義の悪習に対する強烈な回答となりうるだろう。生徒たちが教室の中で、コミュニティでの経験を批判的内省の基礎として活用し、民主的なコミュニティの本質やその中での市民の役割についての批判的な検証へと向かう時に、そこに自由を教える機会、自己と他者の相互依存を発見する機会、権利と責任の密接なつながりを明らかにする機会が生まれる」(Barber 1998)と述べ、市民教育(civic education)もしくは市民性教育(citizenship education)の一環としてサービス・ラーニングを位置づけることを主張している。

 サービス・ラーニングに参加した生徒たちは、その経験を通じて、自分たちが生活しているコミュニティの中の問題を知ることになる。それだけでなく、その経験を通して、自分とは異なる人々の境遇に思いをはせ、そのような人々の境遇をつくり出している社会的な要因にも思いを巡らすことになる。それはデューイが「共感性」と呼ぶところのものである。すなわち、「人々が共通にもっているものに対する洗練された想像力であり、人々を不必要に分裂させるどんなものに対しても逆らう反抗」(『民主主義と教育・上』p.194-195)としての共感性である。このような共感性を一人ひとりの人間が備えるようにすること、社会的な障壁を永続させるのではなく、それらを矯正し変革する過程に参加する人間を育てることが、教育の重要な課題として再び認識されつつあるのは確かである。



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