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2004.05.31
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維新の変革と部落(移行期研究)研究会報告
2004年1月17日
非人番制度の解体
 非人番制度をめぐる研究はこれまで、近世期を中心に、大阪における四ヵ所非人との関係や、その実態の解明がすすめられてきた。これに対し「解放令」前後、すなわち非人番制度の解体過程については、いまだ十分に解明されているとは言いがたいのが現状である。そこで本報告では、地域を限定して維新前後から「解放令」後に至る非人番制度の実態を分析し、その変容・解体の過程を明らかにしていきたい。

 本報告で対象とするのは、現在の河内長野市域における非人番の事例である。当該地域は近世において、狭い範囲に天領・藩領・旗本領など多数の領主が存在しており、入り組んだ相給関係が複雑な様相を呈していた。従って、実態に即した細かい分析が必要ではあるが、非人番の多様なあり方を検討することが可能である。

 ではまず、維新前の基本的な非人番制度のあり方をみていこう。現河内長野市域に置かれた藩のひとつである狭山藩領については、1802(享和2)年の村方明細長によって非人番の配置を明らかにすることができるが、ここから、非人番は全村に置かれたわけではなく、小規模な村では掛け持ちが行われていたことがわかる。また、えた村における非人番の存在については、留保が必要であろう。番人の心得を記した幾つかの史料からは、非人番制度の具体像が浮かび上がってくるが、勤め方や衣服、住居等について、比較的厳しい制約が設けられていたと考えられる。なお、非人番の宗門人別帳については、基本的には別帳であり、非人番の居住する村に人別帳が置かれていない場合、あるいは無帳の場合もあったようである。非人番は、数カ村ないし数十カ村を支配する小頭によって統制されていたが、小頭と平番との間には収入において大きな差があり、小頭についてはかなりの富裕な生活が推測される。一方で「難渋」しているはずの非人番が頼母子講の講元となる事例などもあり、その生活がどこまで厳しいものであったのか、十分に明らかにすることはできていない。

 以上のような当該地域における非人番の基本的な性格を踏まえた上で、次に維新後から「解放令」公布以前の数年間における非人番の変容を検討したい。当該期には、大坂町奉行所が廃止され、四ヶ所長吏の名称が変更されるなど、「解放令」前でありながらも非人番に関わる制度が改変・解体しており、非人番についても少なからず変容を遂げている。当該地域においては、諸藩の藩政改革と関わって非人番制度に改変が加えられており、藩による一方的な持ち場変更、小頭の任命、改称や心得の通達が行われている。これらは、月給制の導入や雇用関係の明確化などに見られるように、「解放令」以前の段階で、不徹底ながらも近代的な雇用体系の創出が目指されていたとみることもできよう。しかし、身分制の残存と複雑な支配関係によって、非人番の警察機能を十分に発揮させることができず、これらの試みは頓挫している。

 「解放令」公布後は、身分としての「非人」は廃止され、府県改革が行われるなかで非人番制度は警察機構の中に位置づけられるようになる。この過程において、番人、廻り方など、名称についても混乱がみられるが、当該地域を含み込む堺県下においては、「廻り方」の称で統一された。これ以後、元非人番は非人番と同様の職務についたが、全ての元非人番が継続的に従事したとは考えられず、非人番制度は事実上解体に向かった。

 以上みてきたように、非人番制度は、「解放令」以降の地方改革など、維新後の近代化がある程度進展するなかで、解体を遂げたとみられる。しかし、元非人番のその後については未だ十分に明らかにされておらず、今後の研究の進展が待たれるところである。また、今後の課題として、多くの地域や事例の検討・蓄積が必要であることは勿論、非人番と差別、権力者との関係、非人番と非人乞食との関係など、多様な視点から非人番制度を総体的に明らかにすることが必要であると言えよう。

(文責・事務局)