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2004.07.28
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維新の変革と部落(移行期研究)研究会報告
2004年4月17日
明治初期の県政と「解放令」
-奈良県・五條県を事例として

(報告)井岡康時(奈良県立同和問題関係史料センター)

  「解放令」をめぐる研究はこれまで、上杉聰や、それを批判する鈴木良、手島一雄らによって、地租改正を見越した免租地の廃止と地券方式への移行、戸籍法の趣旨徹底、弾左衛門支配の解体といった、国家指導層における政策意図を解明する方向で深化をみてきた。

  しかし、「解放令」の歴史的意義の全体を明らかにするためには、その「成立の意図」のみならず、それがもたらした現実的効果、つまり地方行政や地域社会の動向の中で「解放令」が果たした役割や影響を究明する必要があろう。そこで本報告では、奈良県と五條県による「解放令」布達の状況と、その社会的背景を検討し、当時の両県政によって「解放令」がどのような意義を持っていたのかを明らかにしたい。

  まず、「解放令」がどのように布達されたのかという点からみていこう。奈良県が「解放令」を布達したのは、明治4年8月28日に政府による布告が行われた約1ヶ月後の、同年9月29日だった。乗馬の自由、乗馬用の「襠高袴割羽織」着用の自由、芝辻長吏支配のもとにあった非人番を以後居住の町村の戸籍に入れて管轄すること、という3項目に続く、一連の項目として一括して布達された。

  また、「解放令」の後半部に当たる府県宛の箇所は割愛されていた。近府県の布達月日や、他の布告到達までの日数から、奈良県は遅くとも9月10日頃までには「解放令」を入手しながら、その後約20日をかけて、どのように布達するかを検討したと仮定することができよう。

  また、「解放令」布達の前日には、前年中に民部省達で示されていた博労鑑札についての布達を、1年以上遅れて管内に達しており、これも「解放令」と一連の布達として関連付けられていたと推測される。五條県では戸籍法施行の内容とともに「解放令」が布達されており、その時期も9月末であったと考えられる。

  次に、この「解放令」布達に至る事情とその背後にある政策意図を、当該期の行政課題から推測してみたい。まず当該期の社会状況についてみていこう。気候不順や洪水の発生による明治2年の凶作は、翌年に至っても引き続き影響を及ぼしており、各地で年貢減免や救助を求める声が上がっていた。また、幾つかの不穏な動きもあったが、そのような中にも関わらず、地域社会において長吏―非人番システムを否定する動向が現われていた。これは町・村方と非人番との矛盾がピークに達していたことを示しているのではないだろうか。

  これらによって、非人番の取扱いや、凶作の中で増加する「新乞喰」を如何に把握・管理するかという課題が出現したといえよう。このような課題を解決するため、戸籍法に基づいた戸籍編制が必要とされた。また、長吏との関係を持ち、長らく草場株主と対立関係にあり、独自の運動を展開していた博労を如何に管理・統制するかという課題も、数年来の懸案であった。

  従って、「解放令」は、戸籍法の施行や、これに裏づけられた非人番の解体、博労の統制などを進めていく上で重要な契機となったといえるのではないだろうか。「解放令」は、国政レベルにおいて重要な意義を持っているが、府県政を新たな段階に進めていくという点においても大きな力となったといえよう。

  なお残る課題として、「解放令」とともに布達された、乗馬と「襠高袴割羽織」着用の自由についての項目が持つ意義と、地域社会における「解放令」受容の在り方の解明の必要性が挙げられる。いずれにせよ、急速に改革を進めようとする政府と、単線的に変化するわけではない地域社会の、それぞれの思惑を統合して、いかに地域史を叙述するか、という点が問われてくるといえよう。(文責・事務局)