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研究所通信267号(2000.11)より
2003.07.03
国家・国連と人権
─ポリティカルからパーソナルへ─

中條オルガ(イギリス・ロンドン大学LSE修士課程修了)



 今夏の国連で特に注目されたのは国際人権における人権小委員会の役割の縮小であろう。人権委員会は、今年から4週間の小委員会の会期を3週間へ短縮し、1503手続(大規模かつ重大な人権侵害の自体を特定する事を目的とした非公開通報手続き)に係る任務を完全除去した他、小委員会を「シンクタンク」と位置付け、個別の国の人権状況に言及するテーマ別決議も禁止した。

 会期中、小委員会は始終この「改革」に不満を示した。「我々はシンクタンクなどでなく、国際人権の基準を策定する国際機関である。人権問題は必然的に国家の枠組みの中で起きるのであり、国名を言及しなければ、我々の助言など国際社会で無意味になる」と委員達は大憤慨。討論の嵐を巻き起こした悪名高きこの決定は、国連初心者の私にとって真に興味深いものだった。この一件が、今日、国連人権保障機関が直面しているジレンマの核心を突いているように思えたからである。

 人権委員会の決断の背景には長年にわたる政治的行き詰まりがあった。国連の最大の強みであり、また限界とも呼べるのは本質上、国連が国家間機構であることである。これはつまり加盟国同士の利害関係を引きずることを意味し、人権のような極めて政治性の強い問題においてはなお難しい。

 事実、小委員会では政府代表の言い争いや反論権の乱用が目立った。インド・パキスタン間のカシミールをめぐる罵り合いはおもちゃを譲らない子どもの喧嘩の如きで、日本政府に対する慰安婦問題においても、北朝鮮が辛辣な対日批判をしたのに対して、韓国出身の委員のコメントが妙に甘かったのも印象深かった。委員は所属国に推薦されて選出される。国家的利害から抜けきれないのは加盟国代表も委員も同様である。

 人権小委員会は国連のジレンマの見本と言えるかもしれない。敵対国同士の口論、または友好国同士の褒め合いの場にならないよう政治性を最低限に押さえる必要がある反面、極度に政治性を殺してしまうと単なる抽象的な人権問題の議論に帰着する危険がある。政治的を押さえつつ、重要な人権侵害問題に適切に対応せねばならない。

 国連は政治の宿命を担っているが、将来は変わり得る。それを気付かせてくれる出会いがあった。国連人権小委員会先住民作業部会の最終日、「あの、すみません…」と声を震わせ、すがるように私に話しかけてきた女性がいた。会場を走り回る私を見て国連職員と思ったらしい。イシャウェという名の彼女の話を聞くと、今年初めて国連先住民基金の支援を受けてケニヤから先住民代表としてやってきたが、国外など勿論、自分の村さえ出た事もない、国連に来たはいいが何をどうしてよいやら判らない。訴えをなんとか英語にしてみたが、コンピューターの使い方も知らない、文書の提出の仕方も知らない。しかし自分の民族の窮地を何とかしてこの場で伝えなくては、という。会議の幕が降りるまで1時間弱。オフィスに駆け込み、手書きの文書をタイプし、50枚のコピーを取り、国連事務局に手渡して、特例としてその文書が記録されるよう手配した。「ありがとう、他に助けてくれる人が誰もいなかった」と涙を流さんばかりに感謝する彼女を前に、国連を必要とする人の誰もが容易にアクセスできるまでの道程が遠い事を実感せずにはいられなかった。

 しかしいずれ、イシャウェのような個人が国連に意義を与える存在となると私は信じたい。国連の将来は、個人のエンパワーメントにある。ポリティカル、政治性を柔和するのがパーソナル、個人性である。国際人権など特に政治が邪魔をしやすい分野では、国家の枠組みに縛られないNGO、個人や市民団体の活躍が期待される。国連はその性格上、個人、市民には遠い存在である。国連では個人参加の重要性の認識がまだ薄いうえ、当事者側でも国連の「使い方」やノウハウの認識は不充分に見えた。イシャウェは来年もジュネーブにやって来ると言う。次回は個人を個人的でなく組織的に対応する国連であってほしい。

参考文献

  • 国連文書 E/CN.4/Sub.2/2000/1/Add.1
  • 上村英明『アイヌ民族の権利と国連』IMADR-JC通信No.100/1999.4&5
  • (財)アジア・太平洋人権情報センター『アジアの文化的価値と人権』1999年 現代人文社

本報告は原田伴彦基金により国連人権小委員会に派遣されたことに基づくインターン報告である