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2007.05.16

〝しあわせ〟への道

竹村 毅


 私が部落問題と直面したのは、京都府の職業安定課長に就任した一九七二年の夏であった。それまでの赴任地が北海道や東北地方だったので、いわゆる同和問題に関する通達や資料が送付されてきても、これは関西以西の地方問題の一つではないかぐらいの認識しかなく、軽い気持で読み流す程度であったからである。

 今から思つと、京都在任中は、私にとっては部落問題の初期研修の時期のようなものであった。行政官として諸団体との交渉の場に出、また、糾弾会、学習会等への出席の機会を重ねた末、これは地方問題の一つなんかではなく、人間の本質に関わる基本的問題であるとおぼろげながら感じはじめたようだ。この時期にかなりの参考書や資料を集めているし、また、行政施策の面においては特別対策の必要性を痛感し、「同和対策対象地域住民就職促進対策要綱」を私の在任中に初めて策定している。

 しかし、この時期はまだ「出会い」といえる段階ではなく、部落問題を行政施策の一分野としての同和対策という観点から考えるにとどまっていたようである。

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 「出会い」といえるものになれたのは、人との触れ合いを通じてであった。東京に帰任し労働省の同和対策担当課の課長補佐となった私は、各県や団体等の陳情や交渉の窓口の役割を担うことになった。地域等によって微妙に違う要望や陳情に応えていくためには、省としての方針を確立する、いわゆる行政の主体性をもつ必要を感じ、各団体等の幹部と自由な意見交換を行うことにした。

 この提案を快く受け入れてくれたのが部落解放同盟であった。大阪の部落解放センターの会議室で、二曰間にわたるフリートーキングの相手をしてくれたのが、Y中央執行委員であった。

 当時、Y中執は教育担当と聞いていたが、話を進めるうちに担当の分野はもちろん、雇用・就業問題や他の社会問題等についても広い識兄をもたれ、話の内容にも教えられることが多かった。とくに、人権の尊重についての真蟄な攻組みについては感動さえ与えられた。

 「僕は中学しかでてないから……」といわれたY中執との二日間は、私の心の底にあったエリート意識を粉砕するに十分であった。帰りの新幹線の中での気持よい疲れと、自分ももっと勉強しなければという反省と、何だかわからないが明るい未来がみえてきたような複雑な気持を昨日のように思い出す。約八年後の事であるが、部落の婦人問題を勉強するために大阪にでかけた折、当時、大阪府連の婦人部事務局長をされていたY中執夫人に案内していただき、Y中執には御夫妻ともにお世話になった。

 帰京後さっそく省内の資料や体制等を点検し、部内資料として「同和問題関係資料」の作成にとりかかり半年がかりでまとめて、全国の職業安定所へ送付することになった。それまでは時々の通達程度しかなく、全国の職安では参考とすべき業務資料にもこと欠いていたのである。

 中央官庁では、およそ二年周期でポストを変わるのが通例である。そのため組織の柔軟性が保たれるというメリットがあるが、反面、場合によっては組織的な”逃げの機構“としても働くことがある。当時の私の頭の中にも、二年間とのポストを勤めればという考えもあったが、これを吹きとばしてくれたのがY中執との会談であった。

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 あくまでも比較のことではあるが、一九七五年当時の行政交渉は率直にいってかなりきびしいものもあった。お願いや陳情という形で地方公共団体等から頭を下げられることになれている中央官庁の公務員にとって、住民団体等との直接的な接触はめったになく、また運動体側もめったにない機会なので強く実情を訴えようとする気持があったからであろう。

 福岡県連との旧産炭地振興の問題をめぐっての交渉の末、一度現地で話合うということになり、担当補佐の私が一人で福岡に行くことになった。新幹線の中では同県連とのはげしいやりとりの場面が目に浮び緊張して博多駅に降り立った。

 しかし、そこで私を待っていたのは暖い歓迎のまなざしであった。遠い所へよく来てくれた、本当にご苦労さんという気持が人びとの言葉のはしばしや態度ににじみあふれ、当初の私の懸念は跡かたもなく消え去っていった。県内を方方案内してもらい、地元支部の幹部や地区住民の方々と率直に話合うことができ、暖かい人のきずなを作ることができた。その後、福岡県には度々訪れることになったが、この時がきっかけになり県連や地協の幹部、地域の人びととの人間的なふれあいができたとが、今や私の心の中の財産となっている。

 同じ頃、大阪や奈良等でも多くの人びとにお世話になったが、おそらく私ほど数多くの部落を案内していただき多くの人びとの話を聞かせていただいた国家公務員は少いのではなかろうか。人の良い暖かい心を持ったこれらの人達とのふれあいが、また、人間を尊重するという事がなんであるかをよく知っている人達の差別を受けていることへの憤りが、ポストを離れても私を図書館へ通わせ、部落問題の勉強へとかり立てていった。

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 ちょうどその頃、各省庁に突如として問題提起されたのが『部落地名総鑑』事件であった。

中央交渉の場で初めてその詳細を知るはめになり大いにあわてたが、交渉団のはげしい憤りを目の前にし、また、企業への啓発指導の大切さを力説する姿に同感しつつも、私の頭の中では企業への指導を強化するチャンスだという冷い打算も働いていた。

 『部落地名総鑑』事件に関する諸通達や要請文等を出して一応の決着をみて後、直ちにとりかかったのが企業内同和問題研修推進員制度の創設である。この制度は一九七七年度から実現したが、予算要求をまとめる時から省内にも反対意見があり、また結果的には企業団体等に一言の事前の相談もせず強引に設置したので、かなりの苦言もよせられた。しかも、施行直前に私が転任になり途中で逃げだしたような形になったので、上司や後任者に多大の苦労をかけることになった。

 「同和問題」という文言を制度の名称として初めて公式に使ったことや、企業へのその設置を半ば強制したということがその原因であったが、この制度のその後の経緯をみろと、多少とも啓発の推進について貢献できたのではないかと自負している。

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 担当補佐を離任してから八年後に、今度は大臣官房参事官として労働省の同和問題についての最高責任者の仕事を担当することになった。私にとっては、この間の八年が本当の意味での部落問題との出会いであったように思う。この問題は自分自身の問題でもあると確信するようになり、「部落問題とは何か」という問いに対して「自分以外の人間を、自分と同等の人間として見る目を養い、対応する態度を身につけること」という私なりの定義も見出すことができた。そのことは私にとっては「しあわせへの道」をみつけることができたということでもあった。

 部落問題についての理解を単に理念的なものに止まらすことなく、まず実践を試みたのは常時身近にいる家族に対してであった。正直にいってこの試みはいまだに試行錯誤の段階をぬけきっていないが、少くとも今の私の幸せは、この試みの成果だという気がする。妻を、一人の人間として、女性として、二人の間の子どもの母として、その人格、人権を尊重し自分と対等に扱うよう努力する。子ども達もまた一人一人の人間として対等にみ、その人権を尊重する。これこそ家庭円満の秘訣であり、部落問題との出会いの成果であるように思う。

 職場においても、職制上、組織上の上下関係は別として、それ以外はたとえ新入生であろうと人間としては自分と同等とみて対応する。そして先輩として上司として、共に働いている者の個性を尊重し、皆が口己実現できるようにアドバイスする。これが私の職場での部落問題実践の目標であったが、さて、ともに働いた諸君の評価はどうであったであろうか。

 この原稿の依頼を受け、最初書いたのは人との交流やふれあいであった。Y中執の稿にその名残りがある。ところが書いていくうち、依頼枚数の数倍をこえてしまい、あわてて書き直したのがこの稿である。しかし、やはり一言ふれないではいられない気持ちである。

 官吏としての人間関係の中には、時によっては利用し、本音と建前を使いわけ、言葉だけでにごす場合もある。部落問題の勉強の過程であった人びとには、そのようなことが一切なかった。多くのことを教えてくれた大阪府連や部落解放研究所の方々、高知県連、奈良県連、三重県連、京都府連の運動体の人びと、みんな良い人ばかり、心の暖かい人びとである。

 退官して第二の人生を送るようになったが、これからの生き方にやや淋しさを感じていた私に、「あなたには部落問題の勉強があるわ。素晴しいお友達もたくさんいらっしゃるでしょ」という妻のはげましの言葉がまぶしく聞こえた。

 一九八九年一〇月七日、上杉委員長、小森書記長以下全中執、村越理事長、友永事務局長等十数名の方々が集まり、私の退官祝いの会をしていただいた。担当参事官を離れて三年以上の時がすぎているのに、また、参事官当時は力不足で少しの事しかできなかったのにと思うと、心から感謝の念がこみあげ、目頭の熱くなるのを押さえることができなかった。

(一九八九年一二月)

竹村毅(たけむら たけし)

一九三四年生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。一九五九年、労働省入省。大臣官房参事官、職業安定局高齢者対策部長、職業安定局高齢・障害者対策部長を歴任。現在、学校法人産業医科大学専務理事。著書に『同和問題理解のために』(労務行政研究所)など。

出会い-私と部落300万人-(1991年3月19日発行)より