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2008.04.15

人物 松本治一郎(元部落解放同盟中央本部委員長・参議院副議長)のある足跡


平和で民主的な社会を築く
-世界人権宣言10周年にあたって


人権宣言10周年によせて
-なくならない封建的差別待遇 松本治一郎

  日本国憲法第14条には『すべて国民は法の下に平等であって人種、信条、性別、社会的身分または門地により、政治的、経済的または社会的関係において差別されない』と明記され、基本的人権が保障されている。だがこの憲法の精神が国民全部によって守られているだろうか。いや実際には長い年月国民の間につちかわれていた封建的差別概念の打破は、遺憾ながらできていない。基本的人権が高度に保障されている新憲法が生れて、戦後10数年を過ぎた今日においても、国内においては古い封建制度の犠牲者として身分的偏見によって差別を受けてきた6千部落、300万の未解放部落に対する差別問題は、毎日のように全国いたるところでおこされている。世界人権宣言が発せられて10ヵ年を経た今日、部落の子なるが故に就職の門を閉ざされていく中学校や高等学校の卒業生、差別に抗議してみずからの尊い生命を断っていった和歌山の女子高校生、部落に生れたがため結婚の自由を奪われ、それに抗議して自殺する娘たち、部落民という身分をかくしたとの理由で、結婚詐欺として告発された青年等々、基本的人権が無視された実例は枚挙にいとまがないほどである。そしてこのようなことは差別と貧困がもたらした悲劇の代表的なものであろう。憲法に保障された『健康にして文化的な生活』というごく当り前の市民的権利すらも保障されず、働きたくとも職がなく耕したくとも土地がない。自由に住む家さえないのが部落の人々の姿である。

 このような不合理を是正し、人間が人間を軽んずるような差別感をなくして、お互の人権が確立される世の中をつくるために、われわれは大正11年3月3日全国水平社を結成した。全国水平社はその創立宣言の中で『この際われわれは人間を尊敬することによって自ら解放せんとする者の集団運動を起すのは当然である』として人間礼賛、基本的人権の奪還を目的として立ちあがったのである。いらいわたくしは今日まで40年に近い間、この方針を貫くために解放運動の先頭に立って国民のだれもが差別されない世の中を築くために戦い抜いてきた。[…]われわれの今日の運動は、人間が人間を差別してはならないという人権を守る戦いとして、社会の一切の差別をなくするために戦われている。ところが戦後十数年を経た今日、日本の姿は、このわれわれの願いとは逆に、再び憲法の精神がふみにじられ、国民の基本的人権が無視されるような危険な動きが見えてきた。[…]このような中で最大の被害を受けるのがいわゆる部落民諸君である。つねに国民の最下層の身分として苦しめられてきた部落の人々に対しすべてのしわよせが差別となって現れてくるのである。[…]平和憲法が守られ、国民自身の手による民主的な社会が築かれるとき基本的人権が保障され、われわれに対する差別のない社会が生れる日であると強く信じ、世界人権宣言の日にあたり平和を守る国民のみなさんとともに手を取り合って進みたいことを訴える。(参議院議員、部落解放同盟委員長)

 1948年12月10日、第2次世界大戦の反省の上にたって、第3回国連総会で世界人権宣言が採択された。松本冶一郎は、世界人権宣言10周年にあたり、冒頭の記事を新聞に投稿した(『北海道新聞』1958年12月8日の切抜きが残されている)。

 戦後、日本に進駐した連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は、日本の民主化を推進、1945年10月4日、「人権指令」が出され、治安維持法など治安立法の廃止、政治犯の釈放、特高警察の廃止などが行われた。10月11日、ダグラス・マッカーサーは、幣原(しではら)喜重郎首相に「人権確保に関する5大改革」を指令した。

 1946年2月4-12日、GHQ民政局は新憲法の草案を作成、2月13日、GHQ草案が日本政府へ手渡された。改正憲法案は衆議院貴族院両院の審議にかけられ、両院3分の2以上の賛成を得たのち、11月3日公布された。

 1947年4月、アメリカ自由人権協会会長・ロジャー・N・ボールドウィンは、GHQの招きで来日、日本各地を視察、司法省、裁判所、弁護士会、大学、GHQの関係者と、新たに創設されるべき人権擁護のための組織について会合を積み重ね、その結果、政府に人権擁護局、民間に自由人権協会が設立されることになった。

 1947年11月23日、東京弁護士会館で自由人権協会の設立総会が開かれ、片山哲首相が挨拶、会長は空席、副会長に松本治一郎、長崎英造、瀧川幸辰(ゆきとき)、理事長に海野普吉(うんのしんきち)、事務局長に森川金寿(きんじゅ)が就任した。 結成宣言は、「新憲法によって、一応民主化の膳立はでき上ったとは云え、過去幾世紀にわたって日本人民を重圧し来った積弊は、一朝一夕では絶滅することはできない。この悪弊を一掃して、自由と人権を確立することは、日本人民のおかすことのできない権利であり、光栄ある任務であるのみならず、進んで国際社会に参加し、人類の平和に貢献するゆえんである。[…]一、われわれは、封建的、官僚的、其他一切の非民主的な制度並に勢力による自由と人権のじゅうりんに対し徹底的に抗争し、基本的人権の伸長、日本人民の民主化を促進し、以て人類の平和に貢献することを誓う」と謳った。

 自由人権協会は、海野事務所の2階に事務局がおかれ、1948年2月2日、末川博、瀧川によって京都支部が結成されたほか、各地で支部が設立された。機関紙『人権新聞』を発行、51年1月、社団法人の認可を受けた。また、国連経済社会理事会の協議資格を持つ国際人権連盟に加盟し、国際活動にも力をいれた。しばしば、ボールドウィン(国際人権連盟議長に就任)からの助言が契機となり、重大な人権侵害事件に取り組むこととなった。 副会長に就任した松本について、理事長の海野は、「一番熱心に会合に出てこられたのは、松本冶一郎さんでした。ご承知のごとく松本君は部落の出身者で、部落解放のためには身をもってこれにあたって、しばしば牢獄に投ぜられた人であります。そういう経歴をもった松本君が非常に熱心で会合費等も松本君からかなり出してもらいました」とのちに回想している。

 『解放新聞奈良版』第3号(部落解放奈良地方委員会、1948年3月1日)には、「自由人権協会に加入しよう!平和国家、文化国家の建設は何よりも先づ基本的人権が具体的に保障されることから始められねばならない」という見出しで「わが部落解放奈良地方委員会では、3月1日から県本部に『自由人権協会奈良出張所』を設け、基本的人権のよう護のいろいろな事業を進め、日本の民主的再建のための一環として一だんとこの運動を推し進めることになり、東京本部よりの了承を得た。解放委員会本部では特に関係深い部落民はこぞって参加するようにすすめている」との宣伝記事を載せている。海野、瀧川は、部落解放全国委員会の顧問に就任、自由人権協会への期待の大きさが推察される。

 松本治一郎記念会館旧蔵資料には『設立趣意書』『自由人権協会月報』第三号(1948年1月1日)が、部落解放・人権研究所図書資料室の和島岩吉文庫には『自由人権協会とは何か』(自由人権協会、1948年1月)、『人間の権利』(大阪自由人権協会、1952年3月)、『大阪自由人権協会とは!』(リーフレット)が残されている。

 他方、政府では、1947年12月、法務庁設置法の制定により、「人権擁護に関する事項」を所管する部局として新しく人権擁護局が設けられ、人権侵犯事件の調査及び情報の収集、民間における人権擁護運動の助長、人身保護、貧困者の訴訟援助などを所管することとなった。48年2月15日、法務庁が設置され、初代人権擁護局長に自由人権協会常務理事の大室亮一が就任した。7月17日、政令第168号人権擁護委員令が公布施行された。50年5月27日、法務総裁の訓令として人権侵犯事件処理規程が制定され、6月1日から施行された。当初、GHQや人権擁護局が重視して取り組んだのは、公務員による人権侵犯、労働組合への権利侵害、暴力団、人身売買、村八分等の人権侵犯であった。

 人権擁護局は、当初、人権思想の普及高揚に重点を置き、1949年に自由人権叢書として、横田喜三郎『国際人権宣言』、末川博『人権擁護の意味するもの』、瀧川幸辰『刑事裁判と人権保障』などを発刊している。

 1953年6月、国連人権委員会初代委員長として世界人権宣言の起草に関わったエレノア・ルーズベルトが来日した際、法務省人権擁護局は、自由人権協会との共催で懇談会を開催している。

 1954年3月31日には、亀田得冶、羽仁五郎ら10人の発議により、「人権の保障を一層確実にし、また、人権侵犯事件の処理の公正を確保するため、人権擁護局を廃止し、新たに、独立性の高い権威のある人権委員会を設置する必要がある」として、第19回国会の参議院へ「人権委員会設置法案」が提案されている(第20回国会で審議未了で廃案)。

 1949年、中華人民共和国が成立、東西の冷戦が強化されると、占領政策に「逆コース」といわれる転換が始まった。48年、朝鮮人学校の強制閉鎖、公安条例の制定、政令201号(公務員の争議行為の禁止)の公布、49年、松本の公職追放、団体等規正令の公布施行、下山、三鷹、松川の各事件、在日本朝鮮人連盟への解散命令、50年、朝鮮戦争の勃発、警察予備隊の創設、レッドパージなど、民主運動・労働運動への弾圧が押し寄せた。

 自由人権協会は、治安立法批判、言論・出版の自由、松川事件・砂川事件の弁護、原爆訴訟、占領下沖縄における米軍の人権侵害の調査告発、在日朝鮮人の権利擁護等、その時々の重要な人権侵犯事件を取り上げ、常に闘いの最前線で活動を展開した。

 1948年5月、東京浅草で警察官が尋問で青年を射殺した事件を、新しい国家賠償法による損害賠償請求訴訟として訴えた裁判は、勝訴判決第1号となった。

 松川事件は、起訴された国鉄・東芝の労組員20人に対し、1950年12月6日、第一審で死刑5人、無期懲役5人を含む不当な判決がだされたが、自由人権協会は、第2審から海野らが弁護に加わった。松本は、日本国民救援会の難波英夫と共に、1953年10月24日、松川事件の2審判決を前にして、仙台で開かれた「松川事件公正判決要請、自由と人権を守る東北大会」へ参加、仙台高裁へ要請に出向いている。松川事件は、日本の裁判史上始まって以来の世論の盛り上がりによって、1963年9月12日、最高裁で無罪が確定した。また、捜査、公訴提起、訴追は、検察官の故意または重大な過失として、国を被告として国家賠償法による損害賠償請求訴訟を提起、勝訴した。

 松本は、1952年10月に北京で開催された「アジア太平洋地域平和会議」の日本代表団団長に選ばれたが、外務省は旅券の発給を拒否、海野ら自由人権協会の弁護士が代理人となって旅券発給不許可処分の取消の訴えをおこした(裁判は敗訴となった)。

 自由人権協会は、1954年3月1日におきたビキニ環礁でのアメリカの水爆実験による第五福竜丸の被災に際し、いち早く声明を発表。ビキニ水爆被災事件を契機として、全国各地で原水爆禁止署名運動が展開され、8月8日、「原水爆禁止署名運動全国協議会」(事務局長・安井郁)が発足、3200万人の署名が集まった。55年8月6日、「第1回原水爆禁止世界大会」が開かれ、9月19日、「原水爆禁止日本協議会」が設立されたが、代表委員の1人に松本が就任した。松本は、56年4月21日、原水爆禁止清水地方協議会の結成大会に招かれ、第五福竜丸無線長・故久保山愛吉氏夫人の久保山すずと「原水爆禁止と内外情勢」をテーマに講演を行っている。

 また、自由人権協会の協力を得て、1955年4月、日本政府に対し、広島・長崎の被爆者の代理として、大阪自由人権協会理事長をつとめた岡本尚一弁護士が、広島・長崎への原爆投下は国際法に違反する行為として損害賠償請求訴訟を起こしたが、この裁判における第1審判決(東京地裁・古関敏正裁判長、1963年12月7日)は、原爆投下を国際法違反とした唯一の判例となった。

 1954年2月23日付で、国際人権連盟議長・ボールドウィンから海野に宛てた手紙で、米軍による沖縄住民の土地の強制的取り上げについて調査依頼があった。翌55年1月13日、自由人権協会の沖縄土地問題調査の内容が『朝日新聞』にのり、それに米極東軍司令部が反論するなど大反響を巻き起こした。5月には、自由人権協会に宛て「沖縄県伊江村真謝(ましゃ)区長大城幸蔵、西崎区長野原正重、地主代表阿波根昌鴻(あわごんしょうこう)、外区民一同」の名で、米軍の土地取り上げの実情を訴える手紙が送られてきた。61年4月四日には、沖縄人権協会が設立され、自由人権協会は、9月22日-10月8日、沖縄に調査団を送り、主席公選制など16項目の応急改善策を含む報告書を作成、日米両政府へ勧告を行った。

 松本らは、1954年7月5日、福岡の板付(いたづけ)米軍基地内の私有地返還訴訟を福岡地裁に提訴、民主団体と共に板付基地の拡張に反対して闘っていたが、55年6月23日には、富士演習場、立川、横田、新潟、木更津、小牧等の各飛行場の拡張に反対し、各基地で反対運動を闘う代表が集まって「全国軍事基地反対連絡会議」が結成され、代表委員の1人に海野が就任した。

 海野は、1956年10月と翌57年7月、立川基地の拡張先となっていた砂川町で強行された測量に反対して学生や労組員が逮捕起訴された「砂川事件」の主任弁護人を務めたが、59年3月30日に東京地裁・伊達秋雄裁判長によってだされた第1審判決は、米軍の日本駐留は憲法9条2項(戦力保持の禁止)に反し違憲であるとする歴史的な判決となった。

 1962年7月、事務局長の森川は「在日朝鮮中・高校生に対する人権侵犯事件調査団」の団長として調査活動を行うとともに、翌63年10月、自由人権協会など20余団体が参加して、「在日朝鮮人の人権を守る会」を結成、森川が代表委員の1人に就任した。

 自由人権協会理事長の海野は、1948年8月、日本弁護士会連合会会長に就任、中央労働委員会委員、中央公職適否審査委員会委員、全国選挙管理委員会委員長、総評弁護団会長、憲法擁護国民連合代表委員などの要職をつとめ、人権の擁護に尽力、68年7月6日、82歳で死去、海野人権基金が設立された。

本多和明(部落解放・人権研究所図書資料室)