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2007.10.25
書籍・ビデオ案内
 
Human Rights 2007年2月号(NO.227)
被差別に軸足を置く報道を
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ジェンダーで考える教育の現在

第2回 現場で考える教育環境づくりと男女平等教育の可能性

日野玲子(ひの・れいこ 女性学研究者)

授業ものがたり

 あー、また、やってしまった。「教師という仕事をなめるんじゃない!」と、大きな声で学生を怒ってしまった。教員養成の授業研究を担当している、大学の授業でのことだ。

 その模擬授業は4名の班による発表で、高校「現代社会」の「地球環境の危機」をテーマに、教科書に沿って授業を展開した。教科書の記述は、●人類の危機、●大気の変化、●熱帯林の破壊、三つの小項目で構成されており、導入を担当した学生は、「今日は人類の危機について勉強します」と目的を述べ、次の担当者たちは、地球の温暖化現象やオゾン層の破壊、熱帯林の破壊などの現象を説明した。そして、「私たちに出来ることは何か」を問い、生徒側の意見をいかして「リサイクルや省エネに努めよう」と終えるものだった。

 今から思えば、模擬授業を行った学生たちは、教科書に書かれた言葉や教材研究で得た知識を説明し、要所では生徒側に発問して意見を取り込み、生徒の関心をひく授業づくりを考えていたことがわかる。少々の準備不足はあったにせよ、大きな声で怒るような授業内容ではなかったと思えるのだが、「それはどういうこと? 人類の危機や破滅がリサイクルで終わっていいの?」と、私から怒りの言葉を浴びせかけられたのである。

 その時の私は、「人類の危機」や「人類の破滅」という表現を使った導入と、「リサイクルをしよう」に収斂される結論の、あまりの違いに「これでいいのか?」という思いに囚われていた。

 「人類の危機」を文字通りに考えれば、とてつもなく重大な言葉で、今から100年後の地球環境予測では、温暖化が乾燥地帯を広げ、難民の増大や食料難といった、早ければ学生たちの子どもや孫の世代に起こる「危機」、まさに「人類の危機」が招来するという。「危機」は、淡々と説明して済む話でなく、恐れの実感のもとに問題が位置づけられてこそ、言葉の意味を伝えられるのではないか。また、熱帯林の破壊についても、南北の経済格差の視点から、生徒の暮らしに関連させた授業展開が可能ではないか。

 地球環境の危機については、課題の前に立ち尽くすしかない恐れの感覚や、課題それ自体にせまる内容が必要だと、私は思っていた。ところが模擬授業での結論は「リサイクルをしよう」。これでは「地球環境の危機」や「人類の危機」に開かれた問題意識に結びつかず、問題を個人レベルにとどめ、分かる範囲で答えを出して終わりにしてしまう危険性がある。

 その場で言いたかったことはこれなのだが、模擬授業後のコメントでうまく表現できず、私の感覚はいらだち、感情のコントロールがうまくいかなくなった。そのため、一方で学生たちに謝りながら、他方で学生の問題を指摘して「これでいいの?」と責める私がいたのである。教師の役割を担う私と感情や心をもつ個人としての私が混乱し、外からみれば私の態度は矛盾に満ちたものに見えたことだろう。それは、学生たちも同様で、役割としての学生と感情や心をもつ個人が複数おり、教室で私と対置していたことだろう。

 その時の私は自分の言い分だけを言いつのり、導入と結論を担当した学生を批判する形になってしまった。黙って聞いていた彼女の顔には納得のいかない表情がうかがえ、ようやく私にとって、感情や心をもつ複数の学生たちの存在が浮上してきたのである。彼女や他のメンバー、そして教室にいた学生たちに納得してもらうには、どうすればいいのか。何が問題だったのか。この論考を、弁明のチャンスにできればと考えているところである。

 30年の教師生活を送ってきた私にとって、無自覚に陥っている教師という権力の磁場がいかに作動しているのか、いまさらながら恐れを感じた今回の経験であった。そして、これからも教育に携わるものとして、また、男女平等教育に関心を寄せるものとして、自ら組み込まれている教育環境の問い直しが不可欠に思えるようになったのである。

 また、この経験から、学生たちの課題にも気づくことになった。なぜ学生たちは、「人類の危機」と「リサイクルをしよう」の関係に、違和感を持たないのか。教科書にしたがった表現とはいえ、「人類の危機」をいかに考えるのか。言葉の意味や教師が果たす役割をいかに考えるのか。こうしてみると学生たちのこれまで受けてきた学校的知識が、どのような質の知識であったのか。教科書を含めた教育現場での知識の質が課題として浮上してきた。

 ところで、この文章と男女平等教育がいかに関連するのか、疑念を持たれる方がいるのではないだろうか。私自身、男女平等教育に関心を持って活動してきたが、学校教育での男女平等教育イメージは、縦割りにされ閉じる傾向があったように思える。先にみた教育現場の知識と同じように男女平等教育が扱われているとしたら、換骨奪胎の教育に陥る危険性がある。これから男女平等教育を構想していく時、どのようなスタンスで課題に向き合うことが必要なのか、ここでもう一度確認したいと考えている。

教師という権力の磁場

1.「教える」側の落とし穴

 今回の出来事で、教師としての私のあり方を、振り返ることになった。うまく言えず「いらだつ」自分に問題があるにもかかわらず、距離感を失って、学生の問題点をいいつのり、それで教師の役割を果たしているつもりの私がおり、また、本来なら教師は、学生の立場にたって支援する役割を担っているのに、学生たちを感情や心を持つ存在として尊重していない私がいた。

 ここに現れた教師と学生の関係には、知識の落差による上下関係のもとでの「教える」側は、権力をもつ自分が基準となるために、判断する自分を問う目が弱くなり、他方、学生に対しては、多様な経験や複雑な感情をもつ個別性を考慮の外におく関係のもと、まるで「からっぽの器」のように扱う構造があることに気づいたのである。

 しかし当初は、教師の役割を逸脱した自分の態度が問題だったと思う反面、学生側の問題をあげつらい、自分を正当化する思いがなかなか抜けない日々を過ごした。ようやく問題の所在の気づきを得て、学生を受け入れる気持ちが出てきたように思う。そして、この間の思いを伝え、あの授業をどんな内容や展開にするとよいのか、私の考える授業内容や展開を提示することが、教師としての責任だと思えるようになった。

 しかし、こうした気づきを得たことは大切だと思うけれども、問題は、教師が組み込まれている、この落とし穴の感覚は長続きせず、また、授業の日常性が維持され、自然化された教師と学生の関係に戻ってしまうことにある。「教え」「教えられる」教師と学生の関係にひそむ教育環境が、いかにつくられているのか。こうした授業の日常性を問い直す、具体的な視点が求められているように思うが、ジェンダーの視点はその一つだろう。

 そして、この課題は、単に私個人の問題でなく、学校教育のあり方の問題として考える必要があるかもしれない。たとえば、ジェンダー・フリーな教育(注1)を提案した東京女性財団の報告書には、「日本的集団主義」や日本の学校・学級での秩序を重視する学級経営のあり方を問題化していた。

 集団的に教育を行う学校現場では、教師による教室内の統制が強くならざるをえず、教師と学生を上下関係におき、結果として、子どもの多様な経験や複雑な感情を考慮の外におく教育方法をとりがちになるのではないだろうか。また、性別カテゴリーが安易に統制原理となっていることは、教育社会学の研究が明らかにしているが、そうした現場が、子どもたちの固定的な性差観を助長し、ジェンダー規範による子ども間の排除をうむことになっているかもしれない。

 ジェンダー・フリーな教育は、人びとの意識や態度に取り込んでいる「両性の生き方を不自由にしているような文化的側面」を問題化し、個別な子どもの意識と、意識を構成する文化的背景を問うことによって、子どもたちの判断力を促す教育づくりを目指して構想されてきたが、それは、学校文化すなわち教育環境を、子どもたちの人権を尊重するものに変える取り組みを目指していると言えるだろう。

 これから教育を考える時、単に知識を「教える」教育でなく、子どもたちが学校でどのような経験をしているのかをカリキュラムと捉え、さまざまな子どもたちを取り巻く教育環境が、どのような価値観で、いかにつくられているのか、「隠れたカリキュラム」の視点から、検討を深めていくことが必要だと思うのである。

2.教科書的知識のつくられ方と使い方

 さて次に、高校生対象の模擬授業でみられた「人類の危機」と「リサイクルをしよう」の導入と結論に、なぜ学生たちは違和感を持たなかったのか、という問題である。まず、学生が使用した教科書の記述を、少し長い引用になるが、ご覧いただきたい。

「人類の破滅、これはもはやたんなるSFの世界の話ではありません。現実に十分おこりうることです。もしも、現在の地球の危機に対し適切に対処できなければ、人類もいつの日か、かつての恐竜たちと同じように、この地球からほろび去ってしまうかもしれないのです。

いま地球は、いくつかの非常に深刻な問題をかかえています。地球の温暖化現象、オゾン層の破壊現象、酸性雨、熱帯林の破壊、砂漠化の進行、海洋汚染など、どれ一つとっても人類にとって死活にかかわる重大な問題といわねばなりません。しかもそれはたんなる自然現象ではなく、人為的にひきおこされた現象なのです。(以下略)」

 ここで使用した教科書は、一つのテーマをほぼ一時間で終える構成で、一時間あたり二ページの配分である。教科書の記述は、短い文章の中、テーマへの動機づけや伝えるべき内容を組み込み、太字で現した部分が印象づけられるものとなっている。また内容は、「人類の破滅」について記した第一段落、そして次の段落では、地球環境の破壊にかかわる現象の言葉が記され、人類の危機は人為的に引き起こされているという構成である。

 このように教科書の記述は、短い文章で関心をひこうとするため誇張が行われ、太字で問題の現象を示し、そして人類の危機は人間が引き起こしていると、警告するものであった。ところが、学生が目にとめたのは「人類の危機」の表現と太字の言葉の部分で、授業は主に言葉の説明とそれに関するものに費やされた。

 おそらく教科書が「人類の破滅」のように誇張した記述であったため、学生にとってその部分は現実味のうすい内容に見え、それが文脈をとって考えるのを難しくしたように思える。導入の「人類の危機」という部分は後に関連づけられることなく、授業は展開され、「リサイクルしよう」の結論になった。こうしてみると結論は、対象の高校生が身近な問題として考える機会にしたいと思った、学生の苦肉の策だったことが分かるのである。

 またこれは、学生の学校的知識が、太字の表現とその意味を覚え、試験に備えるものとして経験されてきたためではないかとも思える。そのため「教える」側になっても、教科書の内容を断片化した言葉で捉える傾向があり、文脈を読む発想になりにくかったのではないだろうか。これは、学生の問題とばかりは言えず、これまでの学校における知識の質を示すものだったように思うのである。弁解になるが、「教師という仕事をなめるんじゃない!」という怒りは、こうした学校的知識に対して向けられ、反応したように思える。

 教師は、教育づくりの現場を担っている。短い文章で書かれている教科書はそれだけで授業することはできず、教師が生徒の興味や理解力を考えた教材研究を行い、教科書の文脈を膨らませた教材を準備する必要がある。しかし現実には、教材研究の時間的制約や教師自身の力量の限界など、学校的知識の問い直しができないまま、授業に臨むことも多い。教師という権力の磁場が、こうした危うい関係のもとに成り立っていることを、改めて見直すことになった。ではこの感覚で、男女平等教育を検討すると、どうなるだろうか。

ジェンダーに敏感な男女平等教育の可能性

1.ジェンダーの視点による教育環境の問い直し

 まず教師という権力の磁場を考慮すると、教師は、自分を基準に自然化された感覚で判断するため、案外自分を問うことが難しいのではないか、という課題が考えられる。先の私の場合も同様だが、教師の言動には、生徒や同僚から見ると、理不尽なもののあることが推測できる。

 たとえば、性別で叱り方の口調が違うし、言い方も違う。男子が、女子に負けると「女より弱い奴はいらん」、涙を見せると「女のくさった奴みたいやな」。体育大会の練習の後「女は野獣みたいに激しかった。男はもっと元気を出してやろう」という男性教師。なぜか、女子と比べ、男子を励ます言葉かけが多くみられる。これらの表現をとる教師たちは、一方の男子を叱咤激励しているかもしれないが、他方、女子を貶めていることをどう考えているのか。また、女子に「負ける」男子は切り捨てられるだけなのか。これを、すべての子どもたちが尊重される教育環境だ、と言うのだろうか。

 このように学校の日常には自覚されないまま、性別によって子どもたちを分け、序列づけた表現が使われている可能性が高いのである。また、授業の状況把握でも、教師と子どもたちの意識している世界が違う可能性もある。

 たとえば、ある公立中学校の調査で「授業中、積極的に発言するのはどっち?」と聞くと、教師の回答は、「どちらとも言えない」(71.1%)、「男子が多い」(18.4%)、「女子が多い」(10.5%)だったのに対して、女子の回答は、「どちらとも言えない」(38.9%)、「男子が多い」(51.6%)、「女子が多い」(8.5%)、次に男子の回答は、「どちらとも言えない」(44.1%)、「男子が多い」(43.2%)、「女子が多い」(10.5%)というものだった。

 この結果から、教師が見ている世界と、子どもたちが見ているそれは、違う可能性のあることが推測できる。実際の現場は、どんな状況なのだろうか。女子や男子が積極的な場面があるなら、それがどんな状況でのことか。またそのとき、積極的なのはどんな女子や男子で、そうでないのは誰なのか。それはどうしてなのか。現場がいかに構成されているのかについて、どれだけ自覚的になっているのだろうか。

 教師のジェンダー意識は、判断する価値観それ自体が取り込まれているため、自らその偏りに気づきにくい。だからこそ、自らのあり方を問い直す目を持つ必要がある。そうでないと、自覚せぬまま、子どもたちや周りの者の自尊心を、傷つける危険性さえある。このようにジェンダーに敏感な視点を持つことは、子どもたちの教育環境を、子どもがもつ可能性を開くためには、不可欠のものといえるように思うのである。

 加えて、先に取り上げた教科書については、別に丁寧な分析が必要だが、さまざまな男女平等にかかわる記述が、誇張や断片化によって単純化されている可能性もある。授業でいかに教科書が扱われているのか、書物としての教科書分析だけでない検討が急務であるし、さらに教科書の体系や学校教育制度に関する検討も必要だろう。

2.ジェンダーに敏感な教育づくりの方向性

 これまでの私が関わってきた男女平等教育は、現象として見えやすい男女平等の課題が取り上げられる傾向があったが、子どもたちの可能性を開くための教育環境づくりから考えると、先に検討した教師という権力の磁場や教科書的知識の質の問題とも、関連させた検討が必要に思える。また教師も子どもも、それぞれ個別で多様な経験や感じ方を持ち、ジェンダー意識についても多様な感じ方を持っていることを考慮すれば、これからの男女平等教育は、現場でくり広げられる人間関係や教育カリキュラムの作成に関して、多様で柔軟な視点が求められるように思う。

 たとえばアメリカの体育・スポーツのジェンダー平等の手引書には、対象となる生徒に関して「生徒の能力、必要、興味や、生育環境」のバランスや、「男女両方を動機づけるように、楽しさや、人間関係、技術練習が工夫されているか」といった、柔軟性や多様性のある、具体的な取り組みの配慮が示されている。また、男性モデルのスピードやパワーの評価だけでなく、他の価値、バランスや柔軟性を考慮した評価を取り入れるなど、評価基準そのものを問う指摘がされている(注2)。

 これからの男女平等教育は、現象として見えやすい性別による固定的な見方を改めるだけでなく、学校文化に隠されている価値観を問い、それに代わる具体的な方法の提案が必要だ。それはまた、さまざまな経験をもった子どもたちの可能性を開く、教育環境づくりとして考える必要がある。こうしたことの実現のためには、現場を担う教師の役割が大きいように思えるのである。


(注1)本稿では、男女平等教育とジェンダー・フリーな教育の表現を使用しているが、いずれも性別による固定観念と性差別の撤廃を求め、子どもたちの可能性を開く教育づくりを目指すものだと、私は考えている。東京女性財団による『ジェンダー・フリーな教育のために――女性問題研修プログラム開発報告書』は、1995年と1996年の二つの報告書が刊行されている。

(注2)井谷恵子他「アメリカの体育・スポーツにおける男女共同参画の進展」京都教育大学紀要95(再録 井谷恵子他編『女性スポーツ白書』大修館書店2001)