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2008.03.03
書籍・ビデオ案内
 
Human Rights 2007年5月号(NO.230)
行政における公益性とは
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ジェンダーで考える教育の現在

第5回 教員―学生間の恋愛という難問

古久保さくら(ふるくぼ・さくら 大学教員 女性学)

セクシュアル・ハラスメントとは

 教育の場におけるジェンダーをめぐる問題として、セクシュアル・ハラスメントの問題は避けては通れない問題である。本稿では、セクシュアル・ハラスメント事象に対応する中で、たちあがってきがちな教員―学生間の恋愛という問題について、特に、成人に達している学生をも抱える大学という場に注目し考えたい。

 まず、セクシュアル・ハラスメント概念のおさらいをしておきたい。

 法的なレベルでいえば、男女雇用機会均等法においては、雇用管理上必要な配慮をしなければならない問題=セクシュアル・ハラスメントとは、性的な言動が存在し、それに対して女性労働者が何らかのリアクションを行ったところ、それにより当該女性労働者が何らかの不利益を受けた場合、あるいは、性的な言動により就業環境が害される場合となっている。

 一方、学校教育現場におけるセクシュアル・ハラスメントという問題については、「文部科学省におけるセクシュアル・ハラスメントの防止等に関する規程」1では、「セクシュアル・ハラスメント」の定義を、「職員が他の職員、学生等及び関係者を不快にさせる性的な言動ならびに学生等及び関係者が職員を不快にさせる性的な言動」としており、「セクシュアル・ハラスメントのため職員の就労上又は学生などの就学上の環境が害されること及びセクシュアル・ハラスメントへの対応に起因して職員が就労上の又は学生が就学上の不利益を受けること」を「セクシュアル・ハラスメントに起因する問題」と定義づけている。

 ここにはやや異なったセクシュアル・ハラスメント解釈がある。文部科学省の規程においては、不快にさせる性的な言動そのものがセクシュアル・ハラスメントにあたるという理解なのである。本稿でもこちらのセクシュアル・ハラスメント概念を採用して議論したい。

性的対象とみなされることへの被害者のショック

 私自身が人権問題研究センター所属でジェンダー論の教員という立場上、直接被害者の方から相談を受けることがある。各ケースにおいて被害は様々であるが、いくつかの事例を通じて明らかになることは、セクシュアル・ハラスメントの被害者は問題を長く自分の胸にしまいこみ、悩み続けるということである2。ある事例においては、数年前のセクシュアル・ハラスメント被害について、被害者は事件のあらましを私に伝えながら、「やっぱりこれってヘンですよね」「やっぱりセクハラだったんだって今日話してようやく自分で納得できました」と述べるということがあった。このセクシュアル・ハラスメント事案は、教員からの性的誘いかけ(身体接触含む)というものであったが、「大学教員が学生に対して性的関係を誘いかけるなどおかしいじゃないか」と思いつつも、「他の人に分かってもらえないかもしれない」「自分にも落ち度があった」と自分を責め続けてきたというのである。それは同時に、「自分がヘンだと思っていることを社会は認めてくれないのかな」「自分の感覚はヘンなのかな」という社会への不安感が醸成され続けることでもある。

 このほかの事例においても、「信頼していた教員が信頼に足らない人間であった」「安全であると信じていた大学がそうではなかった」「学問の世界には性など関係がないと思っていたのに違った」と、信頼していた世界が崩れることを、被害者たちは口々に語った(そしてその信頼している世界を取り戻すことの困難も語るのである)。

 このように語る彼女たちのショックとは、ジェンダー・セクシュアリティから自由な空間として設定されている(ことになっている)大学という学びの場で、性的な誘い/攻撃があったというそのこと自身であり、かつその不当さを理解してもらえないかもしれないという不安なのである。

 たしかに、その不当さを理解しない環境があるというのも事実ではある。ショックを受ける被害学生がいる一方、加害者の側あるいは周りの教員たち(特に男性が多いように思われるが)は、被害学生がもつ「性的対象とされたこと」自身に対する衝撃というものをよく分かっていないように思われる。

「不適切」だが「ありがち」な教員―学生間の恋愛

 私は何人かの加害者側の主張を直接・間接に聞いたことがあるが、「恋愛だったはずだ」という主張は決して珍しいものではない。「教員である前に男なんだ」と開き直った加害者もいたと聞く。しかしながら、この言い分に対してまわりの教員も「納得」してしまうことがありがちでもある。

 「納得」してしまいがちな理由は、教員―学生間の恋愛に対する認識の問題でもある。実際、大学において教員と学生との恋愛をどう考えるかというのは一つの難問であり、確固たる答えがあるという現状にはない。

 例えば、アメリカのカルフォルニア大学(群)においては、Generarl University Policy Regarding Academic Appointees; The Faculty Code of Conductにおいて「教員がある学生と学問的指導上の責任を持つ場合においては、ロマンティックなあるいは性的な意味において個人的関係をもつことは、それがたとえ同意の上での行為であっても、適切ではない。そのような行為は、教育過程の誠実を傷つける行為である」3と明記されている。

 このように指導的立場にある者と指導される学生との間の恋愛関係を不適切な関係としてとらえるというのは、アメリカにおいては一般化しているようである。たとえば、東部の私学コーネル大学においても、あるいは南部の州立大学であるノースキャロライナ州立大学においても、このような規程は存在している。

 ただし、それでは実際そのような親密な関係をもってしまった場合にどうなるのかという対応については、たとえばノースキャロライナ州立大学では「次学期から指導の関係をはずれる」という対応を行っており、あるいはコーネル大学においても「指導の関係か私的な関係かを二者択一することが求められる」というに過ぎず、「適切ではない」ことが、即教員に対する何かしらのペナルティをもたらすわけではない。

 サンフランシスコ州立大学におけるsexual harassment officers(セクシュアル・ハラスメントの事案を学内調査する役割)の一人は、「新任教員に対して『学生と恋愛するな』とはいえませんね。ただし、その結果セクシュアル・ハラスメントであると訴えられるなど、面倒なことが起こりがちなので、さけた方がいいとアドバイスしています」と語った。

 アメリカにおける大学教員と学生との恋愛とは、一方で「適切ではない」という判断と「禁止はできない」という判断の間で揺れ動いているように思われる。

性的対象となる可能性におけるジェンダー格差

 しかし、教員―学生間の恋愛を、一方では「教育課程において不適切」としつつも、もう一方では「禁止はできない」といわざるをえない状況は、セクシュアル・ハラスメント事案が生じたときに教員に対してきわめて有利な判断がなされがちな状況を生み出している。

 たとえば、アメリカの一大学におけるダンスの授業での一事例を紹介したい。個別指導をしているうちに、学生が自分を誘っていると判断した教員が性的接触をしたところ、学生はそのつもりは全くなかったのでセクシュアル・ハラスメントであると訴えたというケースである。教員側は、学生側から誘われていると思ったので性的接触を試みたが、学生の反応が期待したものと異なったためそれ以上の接触はしていない、学生の気持ちを誤解した行為にすぎないと主張した。大学側は、学生に対してはそのクラスの履修中断を許し、別のクラスに変わることを許可して、この問題は終結したというものである。

 ここでは、性的接触を試みようとした教師の行為は処分対象にもされていない。学生の気持ちを誤解したに過ぎない、ということは、まさに学生と教員の恋愛関係が「ありがち」であることを前提としているのである。しかしながら、この前提はずいぶん教員に有利な前提である。芸術のクラスの場合官能的な表現を学ぶことはよくある。教員による「誤解」に基づく行動の余地が残されているのであれば、情感タップリな表現方法を模索するために学ぼうとするたびに、「誤解」に基づく行動を招くという危険を学生の側が負わなくてはならないということになる。教育の場に性愛行動の入り込む余地を残すということは、教員の性的対象となる存在にとっては、きわめて不安感を残すのである。

 日本の現状に話を戻してみるのであれば、「男女共同参画白書概要版平成18年版」によれば、本務教員総数における女性の割合は、教授職10.1%、助教授職17.0%、講師職24.1%となっている。1999(平成10)年度の大学教員(助手を除く)の女性の比率は、10.1%になっていることからみれば、近年女性比率は上昇しつつあることはまちがいないとしても、未だ女性の割合は少ない。また、ヘテロセクシュアルな志向をもつ人の方が多数派であると考えられるので、大学における教員―学生間の恋愛とは、現状では、男性教員と女性学生との関係である可能性が極めて高い。つまり、教員から性的対象として見られる可能性には、ジェンダー格差がおこりがちなのである。

「行動しない」という教員文化を

 ところで、男性教員から性的対象として見られたい女性学生がいることも確かではある。年齢的に見ても、高校からストレートに進学してきた人にせよ、あるいは数年浪人して進学してきた人にせよ、大学在学年齢期(の多く)は性的にもっとも活性化する時期でもあり、女性学生がその性的対象として男性教員を選択しようとすることも皆無ではない。また、私たちの社会のジェンダー認識として、教員男性と学生女性の組み合わせは、「自然」なものにみえやすい。「マイフェアレディ」然り、「源氏物語」の紫の上と光源氏の関係然り。女性を育て導く男性というラブ・ファンタジーが、社会の中にあるからである4。

 それゆえ、私自身が担当している「女性学」の授業の中で教員と学生の間の恋愛という問題を扱うと、学生から「教員だって人間であり、学生を好きになることはあるはずだ」「教員・学生間であっても恋愛の自由を認めるべきだ」「プライベートな領域にまで教員―学生という関係で制約をするべきではない」などの意見が出てくる。この学生たちの感覚は、無前提な恋愛至上主義ともいえるし、プライベート領域とパブリック領域を二つに分けることに全く疑問をもたないからこそでもあると言えよう。

 だが、果たしてプライベート領域とパブリック領域を簡単に分けることはできるだろうか。プライベートな問題としてパブリックな領域に全く登場しないのであればともかく、教室というパブリックな領域に性的なプライベートな関係の存在が認知されたとき、混乱が起こりがちである。その関係そのものを不快とみなす人が現われても不思議はなく、不快な環境としてセクシュアル・ハラスメントとなる可能性はある5。

 また、評価が正当になされるのだろうかという不安をかきたてる可能性もある。教員―学生間の恋愛関係が「不適切」だと判断される理由は、教員が評価権をもつことに起因していると考えられているのである。

 こう考えてみたとき、教員文化としてあらためて教員は学生を性的対象とするべきではないということを大学の中に確立しておく必要がある。同時に、それは男性と女性とに対して性に基づいての別個の扱いを行うことなのであり、その意味でジェンダー差別的行為なのであるという認識を共有化する必要がある。

 もちろん、個々の教員の感情を制限することはできないであろうし、するべきでもない。私たちが教員文化として鍛え上げることができるとすれば、「行動をしない」ということに過ぎない。(異性/同性)学生を性的対象としてみてしまう自分の(ヘテロ/ホモ)セクシュアリティに自覚的になりつつも、ジェンダー差別的行為をしないために行動には移さないというだけの行動指針をいかにして実現していくのか。このことが各大学にはもとめられている。


  1. 平成13年1月6日・文部科学省訓令第13号。この文部科学省の規程については沼崎一郎『キャンパス・セクシュアル・ハラスメント対応ガイド』嵯峨野書院、2001に掲載されている。
  2. これは深刻なセクシュアル・ハラスメントを受けた被害者の傾向と考えられる。「小野裁判提出資料 江原由美子・意見書」前掲、小野和子『京大・矢野事件』所収、参照。
  3. http://www.ucop.edu/acadadv/acadpe-rs/apm/apm-015.pdf 参照。閲覧日2007年3月19日。
  4. 光源氏と紫の上との関係がレイプに基づく関係ではないかと喝破したのが駒尺喜美『魔女の論理 増補改訂版』1984、不二出版であった。
  5. 職場での他者の性的関係を不快な存在としてみなすことが正当かどうかは、ケースバイケースであることも確かではある。が、2001年には京都私立芸術大学音楽学部教授会は教員―学生間の親密な関係が環境型セクハラに当たるという判断をだしている。(京都新聞2001年8月10日夕刊)