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2008.03.03
書籍・ビデオ案内
 
Human Rights 2007年11月号(NO.236)
一人ひとりが引き受けるということ
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ジェンダーで考える教育の現在

第11回 高校現場の実践から
生徒と創る人権行事「オンナとオトコのバリアフリー」

加藤育子(かとう・いくこ 大阪府立高校教員)

はじめに

 昨年度は全校で人権行事「オンナとオトコのバリアフリー」を実施した。男女共生をとりあげたのは、これが3回目となる。いろいろな分野で活躍中の大人を学校に招き入れて生徒たちとの出会いを仕掛けた。当日はどんな話がとびだしたのか。生徒たちの反応は? 笑いや驚き、沈黙、戸惑いもあり、おおいに心を揺さぶられたようだ。人権行事にどんなふうに取り組んできたかを紹介しながら、その意義と今後の課題をまとめてみたい。なお、これは昨年度まで勤務していた府立高校での実践である。

人権行事-ファシリテーターは生徒たち

 本校では、毎年一つテーマを定めて全学年が共通テーマで1年間学習する。導入学習で生徒の興味を引き出し、その時点で各クラスから人権行事委員を3-4人募る。嬉しいことに、けっこう自主的に手が挙がる。そんな生徒たちが、事前学習の準備、行事当日の進行、記録、まとめ作り、事後学習での冊子配布まで、すべてを担っている。ファシリテーターは生徒たちというわけだ。そして、こういった一連の仕事を経て、生徒たちは育っていく。

 部活動や生徒会行事だって生徒が中心となって動いている。人権学習もその方がうまくいくのだ。かつて「講演を聞いて感想文をまとめる」というスタイルの学習をしていた時期もあったが、受け身の学習では得るところが少ないという反省があった。そこから参加型の学習を模索し始めた。そして今のスタイルに落ち着いてきた。本校では元々、人権学習では、教員も生徒も「感性を磨くことが大切」という方針がある。そして「何でも経験」「オープンエンドでよし」とする鷹揚な構えが人権学習の間口を広いものとしてきた。そのことも生徒たちが運営に携わりやすくしている。今回は1年の委員が「身近なことを楽しく学ぼう」と呼びかけ、その気持ちが皆に伝わっていった。

テーマに「ジェンダー」を組み込む

 従来は同和問題、在日韓国朝鮮人問題、障害者問題を3本柱にしていた。しかし2000年度に初めて「ジェンダーをキーワードに男女共生を考える」というテーマを組み込んだ。折しもその前年には男女共同参画社会基本法が制定され、総合学習などにジェンダー問題が取り入れられた時代である。この時には、生徒から「男女別名簿はおかしい」という声があがった。小中学校では混合名簿だったのが、高校に入ると男女別になることに違和感を感じた生徒たちからの声だった。そんな声を受ける形で、混合名簿が実現した。

 その後、2003年度にも「男女共生社会を目指して」というテーマを設け、地元の男女共生センターやJICA、NPO法人などの協力を得て多様な分科会を設けた。生徒は海外のジェンダー問題が、日本の問題とつながっていることを発見したりするなど、ずいぶんと視野が広がった。またこの年には、各分科会で「話す・聞く・気づく」という参加型の学習スタイルをいっそう追求した。年度末には、生徒達が学んだことを男女共生センターで、一般の市民を対象に発表する場も得た。その時には「高校生が真剣に、男女の問題を考えていることに勇気づけられた。」などの言葉をいただき、生徒たちはおおいに励まされた。学びが拓く恰好の世代間交流となった。

逆風の中での新たな課題「インターネット社会と若者」

 それからわずか3年間くらいの間に、時代の状況が一変した。一つは性教育に対するバッシングである。各学校での実践をためらわせるものとなった。しかし本来、男女共生を取り上げることになんの躊躇が必要だろうか。両性に対する平等観を持った生徒を育てることは、今最も大切なことの一つだと思う。これからの社会をまっとうに担える人になってほしい。日本では性差別に対しては寛容な土壌があるから、何かイヤな思いをしている人も我慢していることが多い。そんな「人の痛み」を想像できる力が必要だ。それが立場の違うあらゆる人との「共生」につながっていく資質だと思う。

 またもう一つの変化としては、近年のケイタイやインターネットなどのツールを使ったブログへの誹謗・中傷の書き込み、なりすましメールといったものが、どの学校でも新たな課題となってきたことがある。そこでは一個人を対象に、匿名の書き込みが何十と続き、性的なことで個人を侮辱するようなことが平気で行われている。しかも書き込まれた本人は全くあずかり知らないということが多い。こういった現象に対して、しかるべき手続きを経て、書き込みを削除をすることはできる。しかし、そういった対症療法では、とてもインターネット社会の危険から身を守ることは難しい。そしてこのような新しい課題については、教員や保護者も実に疎い。だからこそ緊急に学習が必要だ。

 DoCoMoは広告で言う。「ケイタイを持った子どもが、出会い系サイト・アダルトサイト・ギャンブルサイトなど、様々な『子どもにみせたくないサイト』にアクセスできるのは紛れもない事実、それどころか切迫した事態です。だからこそ、子どもを守りたい親の皆様に今すぐ「アクセス制限サービス」を利用していただきたいと思うのです」と。

 学校はこういったインターネット社会の負の側面にどう応えていくのか。確かにアクセス制限サービスは利用できるにしても、生徒自らが考える力をつけることの方がもっと大切ではないか。多くの教員の要望もあり、こういった課題についても取り組むことに決めた。他にはどんな学習を盛り込むのか。人権委員会で長時間かけて話し合った。そして生徒たちの意見も聞いてみることにした。1年全員にアンケートを実施すると、生徒たちの一番の関心事は「恋愛と結婚」だとわかった。このようにして人権行事に向けて動き出した。その後は、ドーンセンターからも多くの助言を得て発想がふくらんでいった。

各分科会の講師とテーマ

 新聞記者、漫画家、カウンセラー、フリーライター、ドーンセンター専門員、写真研究家、大学の先生、国連女性開発基金で活躍された方など、のべ15人の多彩な講師を迎えた。そして多様な切り口からワークをしながら、問題提起していただいた。

 各分科会のテーマには「若者の『性と生』とIT社会」「恋愛と結婚」の他、次のようなものを設定した。「どうなん?日本のオンナとオトコ-日本の『オンナとオトコ』を世界的な視野から見てみよう」「女らしく男らしくではなく人間らしく-言葉にし行動してみると世界は広がっていく」「変わるメディアと私の仕事体験」「写真にツッコミを入れる-ジェンダーってどやねん?」「テレビCMの中の女と男-メディアが描き出す女性像・男性像」「オンナの意識・オトコの意識-私からみた異文化の視点でみたジェンダー問題」「束縛は愛情の表れ?」など。

行事の実際と生徒の感想

 当日は実に賑やかだった。控え室に生徒たちが講師を迎えに来る。緊張の面持ちだ。後は生徒たちに任せる。時にうまくいかない場面もあるが、三年生ともなれば、全体的に自分の間口が広がっているのか、話し合いも和気藹々としていた。

 各分科会では、講師の方の持ち味が存分に発揮された。全部を紹介したいが、先に「恋愛」のことについて触れる。生徒たちは、普段の学校生活の中では、比較的、男女が対等に渡り合っているかのように見えるが、恋愛のことになると少し事情は違うらしい。問題提起を受けて、「みんなに好かれたい女の話は自分のことと思った」「恋愛中のカップルは、仲が良ければ良いほど、2人でずっと一緒にいるし、なんでも支え合っているほどいいと思っていた。でも『2人は一体』という考え方に問題があるなんてビックリした」「つきあってると、相手のことを少しでも知りたいと思うし、相手が自分のことをどう思ってるか気になる。それにメールが返ってくるのが少しでも遅いと、かまってくれない、って思ってた。だけどそれは自己中心的だっていうことがわかった」「自分のことが見えてくるような人と友情を築くという言葉が印象に残った」などの感想が寄せられた。

 また男女別のグループで、抱き合う男女の絵を見てストーリーやセリフを考えるワークをやってみて、女子から驚きの声があがる。また、望まない妊娠をして中絶した学生の体験記には皆、聞き入っていた。「女の子と男の子の考えはものすごく違うことがわかった」「愛し合うっていうのは心から入っていくもので、お互いの気持ちがあってこそ。身体だけを求めていくのは一方的で、相手を思いやっていない」「1回で赤ちゃんができるなんて…。絶対避妊はしようと思う。その前にいやならノーと言えるようになりたい」「相手を恨んでいるのは、ちょっと違うと思う。ちゃんと先のことぐらい考えられるはず」など、自分のことのように考えていた。

 また「同性を好きになった大学生が、両親に打ち明けた時に『生まれてこなければよかった』と言われた」という話には真摯に受けとめる生徒が多かった。「本当に悩んでいることは誰にも話せない、ということに気づいた。勉強のことなどの小さな悩みは言い合えても、明るく振る舞っている人が一番大きな悩みをかかえているかもしれない」と気づいたり、「自分のまわりではありえないと思っていることも、案外身近にあることかもしれないと感じた。将来、友だちがそういう立場にあれば、力になれるような人になりたい」など前向きに受けとめている。日常生活の中で、同性愛を揶揄したりする言動を冗談として受け流すことがあるが、そのことで痛みを感じている人がいることに思いが至ったようだ。

 その他、人生相談の多くには、ジェンダーの問題が「クモの巣」のようにからんでいるということにも気づき、自分の悩みが解けたり、家族を思いやる感想なども多くみられた。また自分の進路を決める手がかりを得た生徒もいる。学習が生徒の頭と心を解きほぐした。

今後の課題

 「良い出会いは直接会うことから始まる。直接会うことは、ケイタイやネットでは代えられない」「男子や女子の身体の悩みはメディアに作られた幻想。好きになった人の身体のことは気にならない」「恋愛をしなくても1人ひとりの価値は変わらない。恋愛にふりまわされないように」これらの講師の言葉は、自分の言葉にして何度でも生徒に伝えたい。

 「ケイタイが人と人との関わりを省略させ、ディスプレイ上の文字だけの関わり合いに私たちをひっぱっている」との生徒の感想は、彼らの感覚の一部として面白い。海外研修に連れて行った時など「ケイタイがなくて楽」と言う生徒がいて、わかる気がした。私たちは良くも悪くもインターネット社会に生きている。いじめ一つをとっても、かつては学校を休めば、一時避難ができた。しかし今はメールやブログへの書き込みなどを通して執拗に追いかけてくる。そこに必ずといっていいほど、性的ないやがらせが含まれていたりする。こういった社会のありようを見据えた人権学習が必要である。そして豊かな人間関係を結ぶことが何よりも大切。生徒たちだって本来はつながりを求めているし、安心できる居場所を探している。驚くほど人間関係に気を遣いながら。「空気を読めない」と言われたら最悪だし、常にケイタイを介してもつながっている必要がある。そうして授業中でも食卓でもベッドの中でもケイタイが離せなくなる。オーストラリアの高校生には、そんな現象は見られなかったが。彼らは高機能の日本のケイタイをひたすら珍しがっていた。

 また、そんなネット空間で起こっていることは、親にも先生にもわからない。何か問題が起きても、全容をつかむことは至難の業だ。生徒を被害者にも加害者にもさせたくはない。それなら生徒の様子が「なんかおかしい」と気づいたり、困った時には「あの先生に相談してみよう」というような関係を築きたいのだが。教員と生徒がネット社会の功罪やネットマナーなどを共に学習するような場面があれば、少しは糸口になるだろうか。

 またもう一つ気になるのは、テレビやインターネットで女性を「モノ化」した映像が生徒たちに大きな影響を与えているということだ。文化祭などの出し物など、各校とも事前にシナリオをチェックしたりしているが、時々アドリブでひどいものが出てきて、対応に苦慮するという声をよく聞く。巷に溢れる「えげつない」ものに感覚が麻痺しまっているのか。しかし学校では一線を画するべきだし、まずは生徒たちに考えさせる場を与えたい。今回の分科会の一つでも、20年前のオリンピック新体操の新聞記事をもとに意見交換したが「20年前には女性への差別的な表現がたくさんあって驚いた。でももっと驚いたのは同じ記事を読んだほとんどの男子が、どこが悪いのかわからないような顔をしていたこと」と述べた女子がいる。この性差のギャップは大きい。セクシュアルハラスメントにも通じる土壌だ。だからこそ学習が必要。「人間教育の落とし穴」である。私たちが知っていることは、メディアを通してやってくる。そのメディアを読み解く力が必要であると今、痛感している。今回は「何気なく見ている広告写真だって作られている」ということがわかる謎解きのような分科会もあり、生徒たちには新鮮な驚きとなった。

 これからも、他の先生とも手を携えて生徒たちの対話を促すような実践をしていきたい。社会は変えられる。その担い手は若い生徒たちと信じて。