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2008.07.08
書籍・ビデオ案内
 
Human Rights 2008年3月号(NO.240)
「いま・ここ・私」を問う視点
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シリーズ いっしょに動こう、語りあおう 第5回

南方もと青少年会館を訪ねて
―自立支援・学力保障の場としての勉強会―

姜清淑(カン・チョンスク 大阪市職員労働組合教育支部)

はじめに

 大阪市では青少年会館条例が廃止され、同時に、従来配置されていた職員も引き上げられた。しかし、もと南方青少年会館においては、グループの自主的な活動として、施設利用のためのグループ登録をしたうえで、主に中学3年生に的を絞った学力形成のための勉強会が現在も行われている。この勉強会は、1980年代後半から始められ、青少年会館(以下「青館」)や学校、地域、保護者の理解・協力を得て発展してきた。

 本稿では、この勉強会の中心をずっと担ってきたMさん(青少年会館で子どもたちの教育を担う専門職員である社会同和教育指導員として採用され、04年からは社会教育主事に職種変更。現在は区役所勤務)から伺ったインタビューをもとに南方の取り組みについて紹介したい。

中3勉強会を始めた当時の状況

 1986年からMさんは南方青館で中学生を担当することとなった。当時の活動では、中学生対象に勉強会を週に2回、7時から8時30分に行い、その後30分間は中学校教員と話合いをもっていた。それ以外に、いわゆる「文体」(文化体育活動)の自主活動(バレーボールなど)を週1-2回行っていた。

 しかし、当時の中学生といえば活動にはあまり来ておらず、学校のテスト前1週間は自宅学習という形で集団活動すらなかった。また、地域の保護者には「蕫勉強がしんどい子﨟ばっかり集まっているところに自分の子どもを行かせられない。勉強会といったって勉強している雰囲気はない」と思い込まれていたという。

 当時の学習会はこのような子ども・保護者の状況からスタートしたのであって、人権について学ぶ活動に子どもたちが集まるような状況では到底なかったという。狭山学習会などをしても、普段集まっている層の子どもも来ない。塾に通う子どもはもちろん来ない。

 まず、子どもたちに出会わないと始まらない。そこで、Mさんは、子どもたちの集まる場に出向いて、子どもたちに「部落問題について学んだり、勉強したりしよう、青館に集まろう」と呼びかけた。

 進路集会を何回も開催し、勉強会は「進路を切り拓くこと」を目的に中学3年生に焦点を絞って始めた。子どもたちにとって進路は重要であるのに、家庭の状況などにより必ずしも塾に行かせてもらえるわけではなかったから、勉強をみてもらえる場があるなら活用しよう、と考えたのだろう。それまでに比べると青館に中学生が集まるようになってきた。蕫しんどい﨟中学生もテスト前はそれなりに勉強しないといけないと思って勉強会に参加していたということである。

当時の周囲の状況

 しかし、Mさんの印象によれば、当時、解放運動の中では、「解放の思想こそ学ぶべきものである。勉強は学校がする仕事で、学校外での中学生の集団活動としてはまず解放の自覚を促すべきである」といった原則的な意見が多かったという。

 また、学校からも反発があったという。学校は、子どもたちを成績で切り分けない教育方針をとっていたが、青館の学習会では「高校の受験合格のためなら偏差値、内申も大事にして勉強せえ」というように、ある種の逆転現象が起こっているように見えたのだそうだ。

 保護者対象の青館での説明会に学校からも見学に来られたが、反発されることもあった。青館を所管する教育委員会からも「勉強は学校。青館は人権教育・生涯学習を」という意見があったという。解放同盟も行政も、子どもの勉強をみるのは学校が基本と位置づけていた。周囲からはとにかく「青館の取り組みとしてそれでいいのか、勉強だけでいいのか」という批判があり、Mさんは相当のプレッシャーを感じていたという。

 しかし、勉強会で集まるようになった子どもたちは、ほかの自主活動にも参加するようになっていた。中学生討論集会(当時の「部落解放子ども会大阪連絡協議会」主催)を例にとると、以前は核になるメンバー数人くらいしか集まらなかったのが、10人から20人ぐらいが参加するようになった。まず、どんな切り口でもいいから中学生を集めること。そのことの大事さを痛感したという。

子どもたち、一人ひとりに合わせた指導

 Mさんは勉強会での対応について、次のように語る。

 中間・期末試験に向けては、子どもたちはクラブがないから学校が終わるとすぐ青館に来て勉強し、いったん夕食を食べに帰って、また青館に来て勉強する。家庭によって夕食の時間が違うので、ある子は6時にいったん家に帰って、ある子は8時にいったん帰って、というように子どもたちの生活を尊重した。学校が終わってもすぐには来ず、8時になってようやく姿を現す子どもも多かった。閉館までの短い時間では勉強したことにならないから、場所を変えたりして時間を延長して勉強した。それでもできていない子どもをMさんは家に連れて帰った。そのときには説教もしたので、子どもたちの間では「家に連れて行かれたらあかん。青館終わるまでにちゃんと勉強しよう」という雰囲気になってきたという。そうした展開が少しずつ成功して、毎年繰り返していくうちに定着し、それなりに中学生が集まるようになった。始めて2-3年たって、中3が来だすと、中2、中1も青館に来るようになった。

 勉強会を始めた初年度からそれなりの成果があがり、子どもたちはほぼ希望する高校へ進学していった。地域の中学校では、地元校への進学促進をしていたが、「もうちょっと別の高校にいけるはず」という親とその子どもも勉強会に来て合格するようになった。それを受け入れて、地元校集中の意味を充分説明したうえで、それでも希望する中学生には、地元高以外の高校受験のため共に取り組んだ。家庭との協力関係を示すことができ、「子どもが希望する高校に入ることができた」など評判にもなった。

 もちろん、不合格の場合も出てくる。Mさんは「その時ほど辛かったことはない。本人の『落胆』、保護者の『怒り』、今もまざまざと思い出す。けれどもそのことを通じて自身も当事者になった。行為には責任がつきまとう。進路について学校と協同できる端緒になった」と考えている。

 一方、「少しわかってくれたらどんどん教えたくなるが、ここでやめておこう、というのが大事だと学んだ。指導力不足を棚に上げて『お前はここまで』と指導側が勝手に決めるなんて、子どもにも失礼と思う。しかし、時間のない中で進んでしまうと前にわかったことまで子どもの頭から消えてしまう。それを何回も見てきたから、ここでとどめておくことがこの子にとってよいのだと見切らないといけない。ひょっとしたらもっともっとわかる子に自分が規制している可能性もあり、いまだに怖く、辛い選択だ」とも言う。

 しかし、そういった対応ができたのも、Mさんが子どもと長い時間を過ごし、話し込んでいたからではないか。Mさんは、様々な機会を捉え、子ども一人ひとりと、じっくり話し込み、家庭状況、進路状況、子どもの思いを聞く。そこにたっぷり時間をかけた。

 学校以外の場で、Mさんだったから子どもとも話ができた。学校の先生でないことのメリットを生かしきれたとMさんは振り返る。学校と先生に任せっきりにせず、南方で、Mさんらしい取り組みが続けられた。

家庭学習のすすめと現実

 1992年、解放同盟大阪府連は、学力保障のために学校だけでなく「地域・家庭も汗をかこう」という方針提起をした「教育改革の提言」を出した。「子どもの勉強を家でみよう、家庭学習の習慣をつけよう。」という内容だった。教育委員会からも家庭学習は大切であるという指導があった。

 しかし、Mさんは、子どもの勉強をみる力のある家はいいが、力のない家が多かったからこそ、青館でこだわって学力保障のとりくみをやってきたのであった。子どもを家に返せる基盤がない中で、「家に返して何とかしよう」というわけにはいかなかった。家に返すためには親を変えなければならないが、親を変えるのは子ども以上に難しいとMさんは感じていたのである。

 Mさんは長年、「家庭学習が大切という考え方もわかるが、親が変わらなければ子どもも変わらない」など悩み、親を変える努力に持てる力の8割をかけてきたつもりだが、なかなか変化がなかったという。悩んだあげく、Mさんは、「親を変える」と考えるのではなく、「世代で変えよう」と考えたという。親に対応する時間を子どもたちとの対応に切り替え、そこに力を注いだ。

 親の世代はテスト前に勉強する習慣がなかった人もいた。少なくとも、学習会に参加した世代の子どもたちが親になったときに「テスト前ぐらいは勉強せえ」と言うようになる、それだけでもずいぶん違うのではないか。それを証明するように、そのころ南方では、かつて勉強会で学んだ高校生、大学生が育ち、補助スタッフとして勉強会を支援してくれるようになっていた。

 一方、「成績優秀者、高学歴者が出てくると、地域にとどまらず、もっと広い世界に飛び出していくのではないか。」そんな周囲の心配もあったそうだ。しかし、Mさんは「できる人が育ったらその人に地域でがんばってもらいたい。そのためには、単に学力だけでなく『思い』と『つながり』を持つ子どもたちを育てようと思っている。けれども、様々な事情で地域を出ていくなら、そのときは笑顔で見送る。水平社宣言の『思い』を持った人間がいろいろな分野で活躍できたら、それは部落解放に大きく貢献できると考えているからだ」という。

青館条例廃止後の弊害・まとめ

 Mさんによると、青館条例廃止後も自主グループとして続けている勉強会だが、もと青館が午後9時までの貸し館業務だけとなってしまい、また、他の仕事を持ちながらボランティアで関わるため、青館の職員として子どもたちと接したころと比べると、どうしても子どもと関わる時間が格段に少なくなってしまった、とのことである。すると、一人ひとりの子どもに寄り添ってきめ細かい指導ができない。Mさんは、「中高生の1日は大きい。中高生は激烈な変化があり、1日見ないとばばっと変わる」と言う。

 そこで改めてMさんに、青館を離れて何が変わったかを聞いた。

 「ちょっと背中を押したら頑張れる子はなんとかなるけど、一生懸命かかわらなあかん子が青館に来なくなったのが一番こわい。行くところがなくて青館に来たり、テスト前だけは欠点がこわくて来たりしていた子どもが、すっかり青館に寄り付かなくなってきた。携帯にかけると、夏ぐらいまでは『うーん、行くわ』など申し訳なさそうにしていたが、このごろは電話にすら出ない。それは以前のように丁寧にみてあげることができず、関係性がだんだん薄れていったから来なくなってしまったのだ」。

 しかし、今の状況には相当なジレンマを抱えながらも、Mさんがそれでも青館での活動を続けているのには強い思いがある。

 「何事も基本は想像力だと思う。人の痛みがわかるとか。どれだけ想像力のある子を育てることができるか。偏差値だけのエリートには想像力がない。弱者の痛みも持っていない。想像力が人の、教育の基本だ。しかし、想像力を育てるにも、ある程度の知識の集積が必要だ。あまりにも少ない知識のうえでは想像力が発動しない。差別との戦いだって想像力がないとできない。勉強会では、受験のため、卒業するための学力を身につけて進路保障をしながら、学力だけでなく、社会で生きる力を育ててきたのだった。

 また、地域で長年子どもたちをみていると、高校を卒業した子どもはその後の仕事の状況を見ていてもあまり転職しない。しかし、中退した子どもは、社会の中でどこかで沈んでいってしまいがちだ。学校文化と社会の文化はそんなに違わない。たいていは中学校卒業で手に入れるものだが、学校文化を初めて高校卒業で手に入れてきた地区の子どもたち。中退阻止は重要な目標だ。『あと1日で落第する』といった情報も、青館職員でいたころにはもっと頻繁に入ってきた。『この教科はあと3日休んだらあかん』とか『他は諦めて絶対おとしたらあかん教科に力をかけよう』とか、子どもと一緒に卒業を目指してきた」。

 青館条例廃止後、子どもたちに関する情報が激減してしまい、進学先や中退者などが全くつかめない地域が出てきている。その中で、南方では子どもに関する情報が、遅くなっているとはいえまだ行き交っており、勉強会によって子どもたちとつながり、その後の人生をフォローする基盤を崩してはいない。

 インタビューに伺った日も、Mさんは子どもの勉強をみている最中だった。閉館時間ぎりぎりにインタビューを終え、ばたばたと青館を出ると、玄関を出たところでボランティアの青年と子どもたちが数人集まって話をしており、私たちに元気に挨拶してくれた。今もなお、子どもたちは勉強会に支えられて育ち、Mさんは子どもたちに支えられて、仕事と、夜の青館での勉強会という生活を続けている。