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2009.05.12
書籍・ビデオ案内
 
Human Rights 2009年4月号(NO.253)

新しい学びの場を創ろう

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シリーズ いっしょに動こう、語りあおう 第16回

子ども会・青少年会館の原点とは
-大阪こ青連2008年度研究集会に参加して

齋藤 尚志(さいとう・ひさし 夙川学院短期大学)

はじめに

 2009年2月24日(火)、大阪こども・青少年施設等連絡会(以下、大阪こ青連と表記する)の2008年度研究集会「青館のビジョンを見すえて ルーツとハートをみらいへ」(以下、研究集会と表記する)が開催された。すでにこの連載でも指摘されてきたように、大阪市内では、青少年会館(以下、青少年会館は青館と表記する)条例が2007年3月に廃止され、青館で実施されていた諸事業も廃止・縮小された。また、今後、大阪府下においても、大阪こ青連への助成金や各地区の青館・青少年センターへの事業費補助もカットされることになり、府下全体において子どもや家庭のセーフティネットの「底が抜けた」状況が生じようとしている。

 そのような状況にもかかわらず、大阪市内では、これまでの連載にも登場した生江地区や西成子ども応援サークル・スプッチなどの活動のように、今、保護者や地域住民が中心になって、青館を使って部落解放子ども会を復活させようとする動きが始まっている。そこで、創設当時の子ども会に関わった人たちの思いや願いとはどのようなものであったのか、その思いや願いに基づいてどのような子ども会活動や青館事業が展開されたのか、などを知り、「原点」に戻るべく、研究集会「第1部 パネルディスカッション 子ども会・青少年会館の原点を考える」が企画された。

 なお、「第2部 報告・講演 青少年会館の今、そして これから」では、沢良宜地区(茨木市)と飛鳥地区(大阪市)の現在の活動報告と長尾文雄さん(聖マーガレット生涯教育研究所SMILE)の講演がなされた。ここでは、第1部についてのみ報告する。

「子ども会・青少年会館の原点を考える」

 第1部のコーディネーターは住友剛さん(京都精華大学教員)、パネラーは、奥名文久さん(初代子連事務局長)、矢野洋さん(大阪芸術短大教員)、中本順一さん(大阪市人権協会理事長)、音野修平さん(大阪府子育て運動部事務局長)の4名であった。

 「子ども会・青少年会館の原点を考える」というテーマのため、4名のパネラーによってそれぞれ、時期的には1960年代から70年前後にかけての、子ども会との出会い、青館との関わり、それらの当時の状況についての話がなされた。

 奥名さんは、1950年代に日之出支部や子ども会を結成した方たちの後を承けて、日之出の子ども会に関わるようになったという。奥名さんは当初から子ども会に関わろうと思っていたわけではなく、すでに10年の活動を経ていた子ども会との関わりは試行錯誤の日々であったそうだ。しかし、先輩たちの後押しや支え(それは時に突き放すという厳しさも含む)によって、子どもたちとつながっていくことができたと述べた。また、銭湯前の住居2階に住んだ若き奥名さんと子どもたちのエピソードも紹介された。子どもたちに向き合うおとなの側のつながりの大切さ、そういうおとなたちと子どもたちのつながりの原風景のようなものを感じた。

 法や制度ができたから子ども会や青少年会館があるのではない。目の前の子ども、とくに子ども会に集まる子どもが学校から疎外された子どもたちであったという現実を見据え、要求として運動へと組織していったからこそ、それらがあるという点を忘れてはならない。このような指摘が、奥名さんの話では強く印象に残った。

 中本さんは、日之出プラカード事件などを例としてあげながら学校における自身の差別体験を語り、そのなかで子ども会が唯一「心の支え・拠り所」であったことを述べた。子ども会で出会った「兄ちゃん」、「姉ちゃん」だけが、学校において差別を受け非行に走った自分をどこまでも追いかけてきてくれたという。そして、中本さん自身が「兄ちゃん」となって、子どもたちを子ども会へ集めようとしたときには、「お前ほど悪かった奴に言われたくない!」といわれ、保護者と格闘したそうだ。しかし、そのようなことを通じて、子どもたちの生活背景(保護者やきょうだい、親戚がだれで、どこに住んでいて、どういった家族関係、生活状況なのかなど)をつかみ取ろうとしたそうである。

 「自分がしてもらったことを他人に返していくこと」は大切なことであるが、簡単にできることではない。中本さんとは違い、他人に返していくことができなかった人たちもいるだろう。だとしたら、今後、この点をより丁寧に問いかけていきたい。なぜなら、1960年代から70年代にかけて子ども会を組織し、青館をかちとり、活用していった人たちの「思い」を再考し、つなげていくべき点をつなげ、再定義すべき点を再定義していくために必要なことだと思うからである。

 矢野さんは、パネラーのなかで唯一教員の側から子ども会に関わった方である。そのきっかけは、中村拡3さんに「遊ぶから授業にならないのなら、遊ぶところとして子ども会を作れ」と指摘されたからだという。とはいえ、子ども会になかなか集まらない子どもたち、いろんな問題を抱える子どもたちの状況に際し、「寝た子を起こす」、「部落に生まれたからこそ差別される痛みを知る、だからこそ誇りを持て!」と逆転の発想から差別と闘うことを表明し、部落問題そのものを子ども会の中心テーマに据え、更池「雑草の会」を立ち上げた。そして、長期にわたって生活を共にして部落問題について学び抜いた龍神合宿、松原市立第3中学校での生徒会選挙への「雑草の会」の取り組み、そして生徒会活動を通じた松原3中全体への部落問題の提起などが紹介された。

 矢野さんの話では、今現在、松原3中は、学校・地域・家庭が協働して子育てをする地域教育コミュニティづくりを展開しているという。その地域教育コミュニティづくりの土台に「雑草の会」の活動が少なからずあると考える。とするならば、「雑草の会」の何が、どのように現在の地域教育コミュニティづくりに反映されているのか、また逆に何が継承されなかったのか、などについて時間があればお聞きしたかった。

 音野さんは、羽曳野市向野において、部落差別と被差別部落内での貧富の差のなかで育ったこと、中学時代に荒れに荒れたが、卒業後に支部の先輩たちとの出会いによって左官の仕事をしながら子ども会に関わっていくようになったことを話された。当日の資料に音野さんが書かれた文章「活動家への変革」がある。私は、この文章を数年前に読んだ。17歳の若者が「当時(=中学時代の「問題児」であり「非行生」であったこと・筆者注)をふりかえり、自らを教訓化せよ」という編集部の注文に応え、自らの生いたちを真摯に綴っていること、その「変革」のありようが強く印象に残っていた。音野さんが17、8歳の時には、青館に勤める社会同和教育指導員に指導・助言する立場になっていたことを聞いて、音野さんの「変革」のありようが再度思い起こされた。

 音野さんは、青館があり社会同和教育指導員がいたなら、子どもの課題や問題が解決できなくても楽にはなる。なぜなら、子どもたちの「居場所」があることが大切だからと述べた。そして、今は「ムラ」だけでなくしんどい子どもたちを支えていくことが必要だとも話された。しかし、音野さんからは、これらのことはすでにやってきたことでもある、やってきたことが見えてこない、つなげられていない、だからこそ発信していかなければならないという反省と課題も語られた。発信していくために、過去の子ども会活動や青館事業に関する資料の収集・整理が不可欠であるといえよう。

 2時間半のパネルディスカッションであったが、4人のパネラーの持ち時間は2030分であった。「子ども会・青少年会館の原点」を語るにはあまりにも短い時間であった。私に限らず、多くの参加者がもっと丁寧に聞きたい点や深く尋ねたい点を抱いたと思う。「子ども会・青少年会館の原点」、それは同時に、今、子ども会の「原点」を取り戻そうとする営みの意義や方向性をさらに考えていくきっかけを与えた点でとても有意義な、刺激的な企画であったといえる。

「子ども会・青少年会館の原点を考える」を聞いて

 ここでは、私がこれまでに子ども会・青館について学んだことを基にして、当日の研究集会で最も印象に残り、私自身の課題としてあらためて考えなければならないと思った子ども会・青館に関する資料収集・整理について記したい。

 3年ほど前に大阪市の青少年支援施策を検討するプロジェクトに参加したときに、子ども会・青館の歴史について学ぶ機会を得た。主に、雑誌『解放教育』に掲載された子ども会・青館に関する論文や日之出支部子ども会の記念誌などに目を通した。そのなかで、奥名さんが「子ども会というのは一定の規律が有って、その中で物事が進んでいきますよね。その規律になじめない子がいると思うんです。その子たちに対してどのような営みをしていくのかが、部落の子ども会の原点だと思います。」(日之出支部子ども会創立40周年記念誌 1994)と述べていた。

 「社会から、学校から、そして時に子ども会からさえも疎外される、疎外されようとする子どもの現実を見据え、子どもに向き合っていくこと」が「子ども会・青少年会館の原点」であるということになるであろうか。とすれば、具体的にどのように子どもに向き合っていったのか、子ども会・青館に関わる1人のおとな(指導員、保護者、地域住民、など)として、あるいは、おとな集団として、どのように子どもに関わり、どのような影響を子どもに与えたのであろうか、など。私は、このような疑問を持って、子ども会・青館の歴史を追究していこうとした。しかし、そのための資料があまりにも少ないことに驚いた。

 今回のパネルディスカッションで奥名さんが「子ども会研究の難しさ」として「生の資料の少なさ」を指摘された。子ども会に関わった多くの名もなき指導員や保護者の声、そして子どもたちの声、さらには子ども会の周辺の地域住民の声、その時々の写真や活動のための教材、具体的な活動内容、など、生の資料がほとんど残されていないということだった。

 このことは、奥名さんがこれまでにも自己批判とともに言い続けてきたことである。たとえば、「現実的には、子ども会に結集させねばならぬ多くの子ども達を、私達指導者は切りすててきたのである。従来の報告の中で登場してくる何人かの子ども達の背後には、何十名もの子ども達が、差別の壁の前に、その生存権すらうばわれるような悲惨な生活実態の中でやぶれさろうとしている現実がある」(「こどもの要求とこども会活動」 第1回部落解放研究大阪集会報告 1970)。あるいは、「制度が出来上がって建て前となってしまうと、一番最初の願いであった子どもを通じての学校と地域との結びつきが弱くなっていくと思います。そのことが、それ以降どう展開していったのかの検証がいると思います。今に至るも、基本的な問題は、子どもが子ども会に求めるものが何であるのかということです」(上記40周年記念誌)など。

 どこまでも子どもの現実を見据え、自己批判しつづけるその姿勢、そして、その姿勢に基づく「子どもを通じての学校と地域との結びつき」が「それ以降どう展開していったのかの検証」。当日の研究集会で中本さんが「理屈を考える者は考えたらいい。子どもを追いかける者は追いかけたらいい」と提言された。子どもを追いかける者が前者の姿勢を不可欠とするならば、理屈を考える者は後者の検証を怠ってはならないとあらためて教えられた。

おわりに

 「子ども会・青少年会館の原点」とは何だったのだろうか。4人のパネラーの話や書かれたものから考えると、「社会から、学校から、そして時に子ども会からさえも疎外される、疎外されようとする子どもの現実を見据え、子どもに向き合っていくこと」ではなかったかと私は思う。この連載に登場した大阪市内の条例廃止後の旧青館ではじまっている営みは、まさにこの子ども会の「原点」を取り戻そうとする営みであろう。そして、私があらためて思うことは、かつての子ども会・青館に関することと、今の子ども会の「原点」を取り戻そうとする営みの両方を記録として残していくことを忘れてはならないということである。さしあたり、「できることを、できる人から」(住友剛さんと西成子ども応援サークル・スプッチの前田朋章さん)とするならば、私は、前者のかつての子ども会・青館に関わった人たちの声や資料を収集・整理することに務めたいと思う。