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human Rights122号掲載
連載・部落解放運動は今
辻 暉夫(つじ・あきお 解放新聞大阪支局)

新しい風25

浅香の街づくり

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"陸の狐島"浅香

 甲子園球場の三倍もある広大な土地。ここをどう利用するのか、どんな青写真を描くのか。被差別部落の人たちと周辺住民が手を組んで"街づくり"を進め、大きく前進してきた。四月二九日、ここで盛大な"まつり"がひらかれた 。

 大阪市と南に隣接する堺市とを分けるように流れている大和川。被差別部落・浅香は大阪市の最南端にあり、この大和川北岸沿いのムラである。東は大和川にかかる大きな橋があって、西は大阪市立大学、南は大和川、北は地下鉄車庫と四方を囲まれ、"陸の孤島"といわれてきた。浅香の人たちにとっては、周辺地域と物理的に隔てられ、閉じこめられているように感じる立地条件だ。実際、周辺住民との往来やつきあいは少なく、それがまた部落差別を助長するという悪循環を生んできた。こうした状況に大きな風穴をあけてきたのが地下鉄車庫撤去闘争と車庫跡地の"街づくり"である。

地下鉄車庫撤去闘争

 大阪市の地下鉄で最も古い御堂筋線。かつて御堂筋線の最南端の駅であった我孫子(あびこ)。我孫子駅から徒歩で一〇分ほどのところに地下鉄車庫がつくられたのは一九六〇年のことである。

 車庫建設計画がもちこまれたとき、地元の浅香地区の人たちは強く反対した。ムラの北側の広大な土地に車庫ができれば、ますます周辺地域と隔絶される。騒音問題も起きる。さらに耕作権や通学路の問題などもある。浅香の人たちは車庫反対闘争に立ち上がったが、大阪市はこれをはねつけ、一九六〇年に車庫を完成させた。しかし車庫に反対してきた浅香の人たちの願いはやむことなく、年を追って車庫撤去の運動は広がっていた。

 車庫建設から五年後の一九六五年、部落解放同盟大阪府連浅香支部が結成された。ムラを二分する激しい住宅闘争を経て結成にこぎつけた。浅香支部は車庫撤去闘争を組織あげて取り組んだ。そして一九七六年、部落解放浅香地区総合計画実行委員会が結成された。浅香支部を中心に浅香町会、社会福祉法人あさか会などが加盟する浅香あげての組織であった。さらに地区内の施設で働く人たち、「同和」教育推進校の教職員、また車庫で働く労働者らも参加。一番大きな目標はもちろん車庫撤去とその跡地を利用しての街づくりだった。そして何度も大阪市と交渉を重ね、車庫の全面撤去などの要求を認めさせることができた。

 要求をかち取ることができたものの、それが実現するまでにはさらに歳月を要した。一九八七年四月一一日午後八時一二分、最後の列車が出て、車庫は二七年に及ぶ歴史に終止符をおろした。浅香地区住民や共に闘ってきた人たちにとって待ちに待った瞬間であった。

 悲願は実現したものの、実はそれ以降の闘いがまた大変だった。三万三千坪という甲子園球場三つ分もある車庫跡地をどうするのかという大きな問題が待ちうけていた。もちろんこのことは撤去以前から論議されてきた。それがいよいよ現実のものとなったわけである。跡地利用について浅香支部が最も重視したのは周辺住民といっしょになって考えるという共同闘争の精神だった。これだけ広大な土地を浅香の人だけが利用するのはいかがなものかという考えから出発。跡地は部落差別をなくすこと、市民も広く利用できるものにすることという二つの大きな柱を立てたのである。

周辺住民とともに

 こうして浅香支部は周辺住民への働きかけを積極的に進めた。住吉区には一二の連合町会がある。このうち浅香に近い六つの連合町会と街づくり懇談会をひらいたほか、チラシやビラを各戸に配り、住民の理解を訴えた。六つの連合町会には四五の単位町会があり、人口約八万四千人。連合町会を軸に教育関係者、労働者とも話し合いを重ねた。こうして一九八八年一〇月、「地下鉄車庫跡地利用街づくり推進協議会」が結成されるに至った。先述した六連合町会がすべて加盟した。現在、周辺の依羅(よさみ)連合町会長のYさんが推進協会長をつとめている。

 もちろん当初から何も問題がなかったわけではない。周辺住民の間に「解放同盟はいいこというてるけど、最後は自分らだけで跡地をつかうつもりやないか」とか「ヘタなこというたら糾弾される」といった"声なき声"があったのも事実だ。しかし、共に手をたずさえて街づくりを進めていくなかで、そうした声は次第に小さくなってきた。跡地に新しい中学校を建設する運動が起こったとき、反対の意見がだされた。そのとき「私たちといっしょにやってきた連合町会の人がある会合で"どうして建設に反対するんや。反対する必要なんか全然ないではないか"といってくれた。いっしょにやってきた運動の力を実感できました」と、総計実行委員会の木村雅一事務局長は言う。

 推進協議会は年に一回の総会のほか、必要に応じて役員会を開催。また二年に一回、街づくり研究集会をひらいている。推進協でまとめられた跡地の街づくりは四つの基本理念から成っている。「にんげんの街」「住民自治の街」「水と緑の街」「教育と文化の街」づくりをめざすことを確認、跡地利用計画を策定してきた。そして推進協結成の翌月には「跡地まつり」を開催、三万五千人もの人がつめかける大盛況であった。多くは周辺住民だった。

 浅香地区は先にふれたように"陸の孤島"だったこともあって、周辺住民との交流が少なかった。むろんその背景には部落差別がある。推進協づくりに努力した浅香支部のある役員は「連合町会からよせられた意見で最も多かったのは、"地下鉄車庫ってどこにありますねん"という声だった。周辺の人でもここに来たことがないから、あの広大な車庫を見たことがない人が多かったというわけです」と話す。

跡地を利用し深まる交流

 八九年の大阪市との折衝で、同推進協が「地元住民の意見を反映した組織であること」が改めて確認された。跡地には、九四年にはAOTS(海外技術者研修研究協会)の関西研修センターができた。アジア・アフリカを中心に世界中から研修生がここを訪れ、寝泊まりしながら技術を磨いていく。浅香支部はここの研修生との交流を行っている。

 さらに我孫子南中学校、住吉区在宅サービスセンター(高齢者向け施設)、特別養護老人ホームなどを次々と実現してきた。現在、スポーツセンターを建設中、この春には中央公園が開設される。

 こうして跡地の大半はもうすでに街づくりが終わっているが、これらの施設や公園などのうち、浅香地区が専用する施設は一つとしてない。「多くの市民がここに来て、施設を利用してくれる。そこで地元の人たちとつながりができる。当然部落問題への認識も深まるはず」というのである。予断や偏見をなくするためには、直接浅香に足を運んでもらうのが近道だ。浅香に来て、見て、批判して、質問してもらおう。共に考え、共に計画し、共に行動しよう。この言葉に浅香支部の考えが端的に表されている。

 この四月二九日、第二回目の「跡地まつり」が開かれた。推進協、総計実行委員会、我孫子同和教育推進協議会、浅香支部の四者でつくる実行委員会が主催。中央公園のオープンセレモニーをかねて、屋台あり、大道芸あり、歌あり、おどりありと実に多彩な催しがくりひろげられた。狭山事件の石川一雄さん、彫刻家の金城実さん、河内音頭の河内家菊水丸さんら多彩な顔ぶれだった。

人と人とのつながり

 浅香地区住民の悲願だった車庫撤去、跡地の街づくりは今や住吉区東部八万人の総意にもとづいた街づくりへと継承、発展してきた。その具体的成果は数々の街づくりとなって表れていると同時に「ここ数年、このあたりで差別落書きが一件も起こっていない。周辺共闘の成果でしょう」(山本推進協事務局長・浅香支部副支部長)というところにも表れている。

 しかし、課題は少なくない。何よりも周辺八万住民の人権意識が本当に変わってきたのか、部落差別をしない、許さないという意識がみんなのものになっているのかが問われるが、少なくともこの街づくりを通して"人と人とのつながり"が深まってきたのは事実だ。総計実行委員会の木村事務局長は「ハード面はほぼそろってきた。これからはソフト面、とくに人と人との関係づくりが大切になっている」と語る。浅香の取り組みは街づくりを柱にしたこれからの部落解放運動のあり方を示す一例である。