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書 評
 
評者松浦玲
部落解放研究128号掲載

小林丈広著

明治維新と京都―公家社会の解体―

(臨川書店、1998年6月、46判、215頁、2,300円+税)

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 明治2年7月8日(1869年8月15日)新政府は「百官受領」を廃止すると布告した。版籍奉還聴許から20日ほど後のことである。

 この布告について私はもっぱら武家側からとらえていたので、上層武士が官称を通称とすることを禁ぜられたという程度に、ごく軽く考えていた。

 例えば私が多年手掛けている勝海舟は幕府倒壊後も安房守を略した「安房」を通称として来たのだが、この布告で「安芳」と改称する。字を差替えて受領名との関係を断ち、しかし「アワ」という音は維持したのである。

 同じような例をもうひとつあげると、もと幕府の勘定奉行で静岡藩の中老になっていた織田信重は「和泉」という通称を「泉之」と改めた。これも字を差替えて受領名との関係を断ち、しかし「イヅミ」という音は維持したのである。


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 武家にとっては版籍奉還や廃藩置県が一大事であって、百官受領の廃止は右に例をあげた程度のことでしかなかった。通称の文字を差替えれば済んだのである。仕事には何の影響もない。だいいち官称を通称としていたのは武家のごく一部、大名や上層旗本、また大藩の家老クラスまでであって、一般の武士には関係がなかった。

 しかし京都の公家にとっては、これが一大事であった。完全失業である。武家が官称を借りて序列を表わしていただけなのに対し、公家の官はその人の職業そのものなのだから、百官受領の廃止は公家全員の失業を意味した。

 私は小林氏の『明治維新と京都』を読んで、この重大な事実を突きつけられて驚いた。先に述べたような事情があるので百官受領廃止のことを知らなかったわけではないのだが、他ならぬこの布告で公家全員が失業するのだというところまで詰めて考えたことはなかったのである。

 小林氏の著作は、この深刻な事実を直視する。これが京都の明治維新であり「王政復古」なのであった。復古と称するのは全くのインチキで、古代から続く百官を、ここで完全に切り捨てたのであった。律令の令が規定する官も、令外の官も、古代から続いていたものは全て廃止された。

 慶応3年12月9日(1868年1月3日)のクーデタ後に新設された官だけが多数の討幕派武士と、ごく一部の公家を吸収して力を振るっている。

何が復古なものか。王政復古したと信じていた公家は徹底的に裏切られたわけである。天皇が東京に「再幸」し、新政府の中枢部分が東京に移った後のことであることは、改めて断るまでもない。

 この本の主人公の一人である西尾為忠は、この百官廃止で縫殿寮の官人というポストを失った。しかし岩倉具視に接近していた西尾為忠は、これに先立って東山道鎮撫軍枝隊の監軍、江戸鎮台府判事、東京府判事、鎮将府弁事などを歴任し、また本官失職後も留守大主典、京都府典事と新設のポストに就く。だが西尾為忠のようなのは地下官人の中では全くの例外で、大部分の「官家士族」は完全失業の貧窮に苦しんだのであった。

 もう一人の重要人物・伊丹重賢も広義には地下官人層に属し、つまり官家士族なのだが、安政大獄で逮捕されるのを初め幕末からの志士歴が長いこともあって維新後は徴士・内国事務局判事、大阪府判事、刑部大判事、司法少輔、左院議官など要職を歴任して元老院議官に納るなど、やはり異例の存在であった。

 古代からの「百官」は廃止されても、新設のポストに就くことができれば失業者にはならないのである。復古ではなく革新、一大革命なのであった。伊丹重賢は革命を担う側だった。

 西尾為忠や伊丹重賢のような突出した人物たちが、官家士族全体の困窮、それと絡まりあっている京都の町の衰退を見過ごすことができず、さまざまに手を打つ。

 ニセモノの復古に裏切られた公家社会の全体を救おうとする。その実態を豊富な新史料によって解き明かして行くのが本書の中心の流れだと私は読取った。「公家社会の解体」の後に何が生みだされたか、というわけである。


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  1879年4月に東京で「平安社」が結成された。官家士族の出身で東京居住者(その大部分は明治政府内にポストを得ているもの)の集まりである。このリーダーが伊丹重賢であった。もと戸田雅楽の尾崎三良や、もと村岡多聞の桜井能監が協力する。京都府から東京の宮内省に移った西尾為忠も参加していた。

 東京で平安社結成の中心となった伊丹重賢らは、同時に太政大臣の三条実美や右大臣の岩倉具視に働きかけて内帑金から京都の官家士族を救済するための恩貸金を引出す。これを基金として同年7月、京都で「産業誘導社」が発足する。官家士族のための授産事業を行うのである。

 平安社・産業誘導社とは別に、1881年には京都の古社寺を保存する目的で「保勝会」が設立された。岩倉が滞在中だった青蓮院に、久迩宮朝彦親王や北垣国道京都府知事が集まったのだという。

 83年に病没する岩倉はまた、その最後の努力で宮内省の京都支庁を置いて官家士族を少しでも救済しようとする。同年にはまた神道家により皇典講究所京都分所が設置された。仏教者によって杞憂会という組織も作られたらしい。

 こういう動きが直ちに実ったわけではない。平安社・産業誘導社は改組されて平安義黌、さらに平安義会となるのだが、最後の平安義会にしても、かつての公家社会の身分制を再現した閉鎖的なものであることを免れなかった。いったんは置かれた宮内省京都支庁も、岩倉没後は縮小され、京都府に吸収されてしまった。

 しかし右のような多面的な努力が挫折を含みながらも続けられるうちに、浜岡光哲や中村栄助ら新しい土着の実業家が育って来る。浜岡は広義の公家社会の出身、中村は下京の油仲買商人の出身だった。協力と対立の関係には一筋縄ではいかないものがある。

 だが、そういうことを全て飛ばして一気に本書の終結まで行ってしまえば、1895年の「平安遷都千百年祭」と平安神宮の造営がある。これが階層や世代の対立を越えて旧公家社会を含む全京都人を結集させるだけの求心力を持ち、また広く全国民の支持を集める力を持つイベントだった。

 本書の「おわりに」には平安遷都1100年記念祭協賛会の解散を記念して写されたという写真が掲げられている。平安神宮をバックに横に並ぶ7人、真ん中が伊丹重賢で、その両脇が近衛篤麿と浜岡光哲だった。

 こう押し切って書いてしまうと、この本の幅をひどく狭めて紹介したことになる畏れがある。本書の実際の記述は序章に禁門の変とどんどん焼けを置き、第1章ではいったん安政5年の条約勅許反対運動にまで遡って幕末尊王攘夷運動の展開と京都の公家社会や有力商人層との関わりが追跡され、その中で明治以後に重要な役割を果たす人物群がどのように登場して来るのか、目配りの効いた叙述がなされている。

 鳩居堂の熊谷の名前が早くから出るだけでなく、最後の平安神宮前の写真でも浜岡光哲の隣には熊谷直行が立っているのだった。周辺の町や村と深い繋がりを持つ公家社会、また新旧の商業との関わりで被差別部落のことにも触れられる。社家出身の非蔵人のことには特に詳しく、私はこの本で初めて非蔵人なるもの全貌に迫る手掛かりを得て、大いに感謝している。


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 しかし私は、さきほど私が勝手に読み取った本書の中心的な流れの中に旧非蔵人の社家のことを入れることができなかった。非蔵人だけではない。品質が悪くても京都産というだけで価値を持った「京都の資望」という問題、また政府中枢部で京都のことを最も心配するのが薩摩に近い岩倉具視であるのに初期の京都府ではなぜか長州系が圧倒的な力を持っているという不思議な現象、あるいはまた第1回京都博覧会を見たワーグマンの絵で熊谷直孝と向い合っているのが西尾為忠だという重要な指摘、さらにまた湯本文彦の『平安通志』その他、多数の興味深い問題を略してしまった。

 私の要約する力が弱いことはもちろんだが、本書の記述方法にも少しは原因があると思う。歴史の大きな流れと末端の詳細とが独特の組み合わせで広い幅をもって叙述されて行くのだが、ある細部の詳細と別の細部の詳細とのベクトルが違うところがあるので、一括し難いのである。

 ただし、これは無理な注文かもしれない。ある細部について新史料があり、それを使っての記述に力が入り、別の細部には別の新史料があって、それを使っての記述に力が入り前と少し方角が違うことにまでは構っておれない。そういうところに本書の魅力があるのだと割り切るべきなのかもしれない。

 私は幸い、本書のどの細部にも強い関心をもつことができた。教えられて感謝することが多く、また新しく大きな疑問が沸いてくる愉しみもたっぷりと味わわせていただいた。

 しかしこれには私の特殊事情もある。果たして誰にとってもそうであろうかと一抹の危惧を抱いたので、つい余計なことを書いてしまった。余計なお世話はやめて、私にとって猛烈に面白かったというところに徹して、その線で他人様にも薦めるべきであろうか。