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書 評
 
評者西田 芳正
部落解放研究144号掲載

屠場文化

滋賀県教育委員会・反差別国際連帯解放研究所しが編
 (創土社、二〇〇一年三月、A五判、二五四頁、二、四〇〇円+税)


 評者にとって牛肉の記憶といえば、子どもの頃正月に親戚が集った場で口にしたすき焼きの味である。まさにハレの食事としてあったものが、今日ではパックづめされてスーパーにあふれている。私たちにとってなじみの食材となったわけだが、生きている牛とパックの肉の間にある過程について知っていることはほとんどないに等しい。解体された半身の枝肉がぶら下げられて並んでいる映像をニュースで垣間見る程度だろうか。

 そしてさらに、「知らない」だけではなく、牛と肉の間にある営み、特に牛を解体し肉にしていく過程について、多くの日本人がネガティブなイメージを抱いていることも事実である。

 本書は、牛を肉とする過程、特にその中心に位置する屠場の現実が「語られるべき」「知られるべき」だという強い課題意識から生み出された。

 本書の特徴は、まずライフヒストリーという手法に求められる。屠場にかかわりをもつ人々自身が語る人生をもとにして、牛が肉になるまでの過程と人々の姿が描き出されるのだが、著者たちの姿勢は、「ただ一つの事実」にたどりつくためのデータとして語りを集め分析することを目指すわけではない。聞き取りの場で、聞き取る著者たちとの間で語り出される主観的な意味をすくい取ることに主眼が置かれている。

 前半部「食肉文化の風景」ではまず、日本における屠畜と肉食の歴史が概観される。肉食習慣が定着した後も屠畜業への賤視は引き継がれ、肉を扱ってきた人々はその存在が無視され嫌われてきた。しかし、精肉以外の「放るもん」とも受け止められる部位は、そうした人々にとっては「なかのもん」として親しまれ、豊かな食生活を成り立たせてきたのであり、さまざまな食品、調理法や食をめぐる暮らしぶりがここでは描き出される。

 「牛が食卓にのぼるまで―牛・屠場・食肉にかかわる人々」と題されたúK部では、そのタイトル通り、農家で育てられた牛がどのような人の手を経て肉につくられていくのか、屠場で牛を解体し、店で肉をさばく人々の仕事と技がいかなるものかが語られている。田で牛とともに働き、育てる農民、農家と屠場をとり結ぶ「博労」、市場や屠場まで徒歩で牛を引く「追い子」、牛を集めるところから枝肉の販売までを一手に扱う「割屋」、「ゴミ皮屋」とも呼ばれ、肉以外の副生物を加工する「化製場」、近辺に行商してまわる「内臓屋」、「仕事人」とも呼ばれる「屠夫」たちの仕事ぶり、そして小売りの世界では、「丁稚」から「追い回し」を経て「板場」に至る肉をさばく技が磨かれる。

 ここに登場する誰もが、牛と格闘しつつも深い愛着を抱き、自らの仕事、技に強い誇りをもっていることが印象的である。丹念な編集作業の成果でもあるはずだが、読者はここで、筆者たち、聞き取り手とともに多くの人々に出会い、屠場と牛をめぐる世界に引き合わされていくことになるだろう。

 ライフヒストリーを用いた研究の多くが、それまで耳を傾けられることのなかった人々を対象としてなされてきた。そうした人々が自ら人生を語るその声に耳を傾けることは、差別的な意識が解消するきっかけともなる。こうした事態を「異文化間の対話」「了解による浄化」と呼ぶ研究者もいるが、本書もそうした可能性、「ちから」を持っている。何も知らないままに「怖い」「残酷な」といったイメージを持っていたり、「肉を食べているのにそうした意識をもっていていいのかな」と何かしら後ろめたさを感じてきた者にとって、それまでの自分の思いをゆさぶらずにはいないだろう。

 「清潔な食肉生産工場」としての姿を示すことで屠場へのネガティブなまなざしを解消させようという方向が模索されているようだが、そこで働く人々の姿をリアルに伝えることこそが、ネガティブなイメージを転換するための道筋であるにちがいない。

 さて、評者の関心からもっと記述してほしかった点がいくつかある。第一に、食肉をめぐる過程に関わりを持つ多様な人々が、屠場とその周辺で働く人々に対してどのような意識を持ち、どのように接しているのか、その点に関してである。内臓の引き取り業者、行商のお得意として、在日韓国・朝鮮人との強いつながりが戦前から形成されていたとの言及はあるが、両者の接点でどのような意識と行動のやりとりがなされていたのだろうか。

 また、但馬から博労によって連れてこられた牛が農作業で鍛えられた後、やはり博労を通して割屋、屠場に持ち込まれる過程と、人々の牛へのいとおしみが多数引かれている部分は、本書中でも魅力的な箇所となっているのだが、丹精こめて牛を育てた農家の人々は、牛を肉にする人々に対してどのような意識、まなざしを向けていたのだろうか。

 「差別―被差別の文脈」で思考することを強制する装置としてはたらく「被差別部落」「部落民」というカテゴリーを避ける、という冒頭で述べられた方針からであろうか、あるいは、むらの中、肉をめぐる人々の間にあっては差別的な意識と言動が経験されることが少なかったのかもしれないが、本書に採録された差別的な経験に関する語りはそれほど多くはない。被差別経験のあり様を通して、屠場に向けられる差別意識の構造を浮かび上がらせることも可能だったのではないだろうか。

 さらに、差別―被差別関係ではないかかわりがあったとすれば、その実相を伝えることも重要な意味を持つだろう。

 また、部落の生活様式に関心を抱いてきた評者にとっては、屠場および食肉産業にかかわる人々の働きぶり、暮らしぶりに関する語りはたいへん興味深いものである。たとえば夜遅くまで惣菜を売る店が以前からあったことは、人々の働き方、暮らし方とどう関連するのだろうか。

 丁稚、追いまわしをへて板場に至る肉職人の形成過程については、きびしい技能習得の過程とともに、「すけ」と呼ばれるパートに似た就労が多かったことが語られている。むらの中には肉関連の仕事を紹介するネットワークが張り巡らされ、大阪には「部屋」と呼ばれる職人たちの紹介、滞在の場があったともいう。逆に見れば、「渡り」とも表されるように不安定な仕事の世界であり、本書でしばしば言及される高い給与とともに、そうした仕事ぶりがどのような生活をもたらしたのかを知りたいところである。

 語り手として登場する人が壮年以上であり、若い人の語りが引かれていないことも残念な点である。調査地の人々との長期間にわたるつきあいの過程で、若い語り手と出会う機会もあったはずだが、これはどうしたことだろうか。

 「ないものねだり」的なコメントを書き連ねてしまったが、それは著者たちの方法的なスタンスの現れなのかもしれない。「何」を語ったかではなく「どのように」語ったか、こそが重要であると述べられているように、聞き取り場面での語り手の思いに焦点が当てられるために、語りの中で言及された人々について、あるいはそこから派生するテーマについては関心がそれほど向けられない傾向にあるのではないだろうか。

 評者も部落での生活史調査を長年にわたって続けてきた。ただし、語りから何を描き出すかは本書とは大きく違っているように思われる。語りの場面や語り手の思いを描くことよりも、生活のあり方、その変化と問題の現れなどにどうしても目がいってしまう。本書で示されたスタイルに大きな魅力を感じており、そうした感覚からは、語りの断片を寄せ集めて「分析」に「早上がり」してしまうという自己批判がつきまとう。しかし同時に、部落の置かれた現状を見るとき、そうした姿勢の必要性をも強く感じてしまうのである。

 本書について感じる「物足りなさ」は、実際には紙幅の制約と、屠場に焦点化するという編集意図から除かれたため、という面が大きいのだろう。úL部では「屠場をとりまく現実」として、今日屠場が置かれている問題状況が扱われている。

 大資本の進出による大量生産・流通体制と食肉加工の機械化が進むことで、従来のシステムと技術の存続が困難になりつつあること、副生物の価格低下と環境問題からほとんどが廃棄処分となっていること、さらに現在進みつつある屠場移転をめぐる経過の背後には、屠場への忌避感と部落差別が厳然と存在していることが指摘されている。そしてまた、最近の出来事であるため本書では当然ながら言及されていないが、一連の狂牛病をめぐる事態が深刻な影響を及ぼしていることが予想される。

 「牛肉離れ」を防ぐために、政治家が笑顔で肉を口にする(笑うに笑えない)パフォーマンスが報道されているが、ほんとうに必要なのは、適切な管理体制の確立と同時に、肉がどのようにつくられているのか、その過程が広く知られることではないだろうか。知らないことがパニックをもたらす要因の一つであろう。

 屠場と肉をめぐる人々の姿をどう引き継ぐかという、本書でしばしば指摘されている課題を、上記の点との関連で考えてみよう。評者が調査の過程で出会った家族を紹介したい。

 江戸時代から続く肉店を営むその一家は、牛を育て、自ら屠場で屠り、肉をつくり、自らの店で売るとともに行商もしている。「殺すんけ、かわいそうやないんけ」などという言葉を受けることもあると聞いたし、大手資本の圧迫にも言及されていた。狂牛病騒ぎ以降はさらなる苦境におかれていることだろう。

 しかしながら、自分が売っている肉がどのようにしてつくられたのかを確かに語ることができることは、今日では強みに転化することが可能ではないか。「産直」「減農薬」など、農業で進みつつある生産者の顔が見える流通の模索と似た、オルタナティブの可能性を評者は一家の営みから想起している。「コメや野菜と牛は違う」と一蹴されてしまいそうだが、「安心できる肉」を求める消費者とどうつながっていくかが課題であることは間違いないだろうし、そのためにはやはり、肉をめぐる営みが広く知られることが不可欠であろう。

 その家を何度目かで訪れたとき、「この地域で中世までさかのぼることができる牛馬の骨が多数見つかった」ことを父親が話してくれた。どう返答していいものかしばらく口ごもってしまったのは、「押し付けられてきた仕事」というイメージを私がもっていたからだと後になって思い至った。そして同時に、人々の暮らしに不可欠な仕事に従事し、技を受け継いできたことに対して彼が抱く誇りを改めて感じさせられたエピソードである。

 書評でありながら、自身の調査の一コマを紹介する無作法を犯してしまった。本書の内容と、最近の事態に触発されてのこととお許しいただきたい。屠場の現実が語られ伝えられることが、今日ほど大きな意味をもった時代はないのではないか。本書はその課題に十分応える労作である。