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2006.11.15
書 評
 
岸 裕司

志水宏吉

『学力を育てる』

(岩波新書、2005年11月、224頁、700円+ 税)

 評者は広告デザイン会社を営むビジネスマンである。ビジネス界では、一般に社員や会社の目標を定め、その達成度を「評価」することをあたり前のこととしている。

 しかし教育、特に義務教育学校での「評価」となると、腰が引けているように感じている。「評価」することにより「学力の実態」を把握することは、教授法の課題が見え、改善を繰り返すことでの「形成的評価」を築くうえで役立つと、評者は考える。だが、昨今の「低学力問題」の議論は、議論に値する調査資料がなかったこともあり、共通の土俵での議論とは評者には思えなかった。

 ところが、本書でも分析しているフィンランドの学力の高さが注目をあびた二〇〇四年に報告された二つの国際学力調査や、著者らによる議論に値する調査資料を得て、ようやく「学力」問題が共通の土俵で議論しうるようになったと考える。

 著者らが本書で示す議論に値する調査資料とは、「過去のある時点で実施された学力テストと同じ問題を現代の子どもたちに解答してもらい、両者の結果をしっかりと比較しなければならない」との著者らの問題意識から、独自の調査により得た次の二つである。

 一つ目は、著者らが「関東調査」と呼ぶ国立教育研究所の一九八一年調査の内容を適用して、二〇年後に実施した「二〇〇一年関東調査」である。

 二つ目は、著者らが「関西調査」と呼ぶ大阪大学を中心とするグループによる一九八九年調査の内容を適用して、一二年後に実施した「二〇〇一年関西調査」である。

 二つの調査、特に本書で詳述する「二〇〇一年関西調査」とその一二年前の「関西調査」との比較で明らかになった特徴は次のようなことである。<1> 子どもたちの基礎学力は、確実に低下している。<2> その低下は、家庭生活の変化、特に家庭学習離れと関連している。<3> 「できる子」と「できない子」への分極化傾向が見られる。<4> その二極分化は、家庭の文化的環境の差と密接に結びつき「格差構造」になっている。<5> しかし、そうした低下や二極分化を克服している学校がある。

 これらの結果から、著者らは特に<3>の「できる子」と「できない子」の得点分布の山が二つのこぶになっている「二こぶ化」に注目し、著者らが別に調査した「二〇〇四年学校効果調査」と比較したところ、中学校国語の得点分布でも「二こぶ化」が顕著であり、数学に至っては「三つこぶ化」にもなっているとの、学力における「格差構造」の拡大の現実を顕著に示すといった「ショッキングな結果」であった、とのことである。

 しかも「格差構造」の低位に置かれているがゆえに「塾に通えない・通っていない者」に限れば、低位のこぶに属することがより顕著なことから、著者は「彼らは、家庭・学校、そして地域の力で何とかしていかねばならないのである」と、本書を貫く姿勢としてキッパリと言う。

 いっぽう、うれしい結果もあった。 <5>の「二極分化を克服している学校がある」事実である。

 調査結果の中から、その事実を示す小中学校各一校(ともに「同和地区」を校区に含む)を見いだし、さらに著者はその二極分化を克服している二校の、校区との取り組みを含む背景を丹念に分析しているのである。 この事実と分析内容には、多くの読者が励まされることと思う。

 この二校の「教育的な観点からみて特に恵まれた家庭環境のもとにあるというわけではないのに、きわめて高い基礎学力水準を有している学校」を、著者は欧米の先行研究が言う「効果のある学校」と呼び、そのネタも解き明かす。 ネタを簡単に言えば、学校と家庭と地域との三位一体による取り組みである。

 著者が敬愛し惜しまれて逝った池田寛氏が理論化して大阪府内で推進する「教育コミュニティ」づくりの「学校・家庭・地域の協働の大切さ」を核として、「効果のある学校」校区では「共同作業によって新しい人間関係や教育的活動をつくっていくことを通じて、お互いが変わっていく」ように、長年取り組んできたのである。 であるがゆえに、著者は「主に首都圏発」の「学校選択制」に反対する。「公立学校は『地域の学校』、すなわち『コミュニティ・スクール』でしかありえない」と主張するからである。

 同時に文科省が「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」の改正により推進する「コミュニティ・スクール(「学校運営協議会」制度)」にも著者は反対する。「首都圏発」の「コミュニティ・スクール」制度が、「学校選択制のもとで運営される前提となっている」と捉えているからである。

 しかし、それは、誤解である。事実、世田谷区は「コミュニティ・スクール」制度を三小学校二中学校で実施しているが、学校選択制を導入していないのである。

 また評者が関わる千葉県習志野市立秋津小学校(石井和生校長、現在の児童数は三五二名)は、二〇〇三年度から市教委の決定により市立全一六小学校のうち、もう一校とともに「児童数が三〇〇前後の学校」との理由から「市内全域から選択できる学校」となったが(二〇〇三年度の秋津小学校の児童数は三一九名であったが、その後は増えている)、元もとの秋津小学校区以外からの通学児童は数人であり、それもほとんどが秋津から 引っ越した家庭の子どもである。

 そして、秋津小は「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」を改正するための先行実践を図る文科省による「新しいタイプの学校運営の在り方に関する実践研究」の、全国七自治体立九校の指定校の一校であった(二〇〇二年度から三年間)し、現在はやはり文科省による「コミュニティ・スクール推進事業」の指定校(二〇〇五年度から二年間)であるが、元もとの秋津小学校区の児童が外の学校も選べる学校選択制ではないために、特段のマイナス要因は見あたらないのである。

 しかし一般的な学校選択制では、通う児童の校区が広域化することから、秋津で推進する「学社融合(学校教育内容の充実と参画する校区住民の社会教育や校区社会のまち育ても意図して、学社双方が融合して授業や事業を推進する方法)」が困難になるであろうとの私の思いは、著者の「学校選択制」に反対する思いと一致する。

 さらには、秋津の学校を拠点にした「学社融合」による「住民との授業の協働」と、「校舎内施設の共用・開放(「秋津小学校コミュニティルーム」と呼ぶ四教室と、約三〇〇?の余裕花壇、陶芸窯をあわせた三つの施設を、秋津コミュニティ内に組織した秋津小学校コミュニティルーム運営委員会の役員住民が、鍵も管理して生涯学習施設として運営する校区への開放スペース)」による学校づくり・まち育て・子育ちを三位一体のこととして推進し、生涯学習のまちと、安全で安心して誰でもが暮らし働けるノーマライゼーションの校区育ての実践とも相容れないだろうと、私は感じている。 ところで著者は、「学力」を「樹」として捉える「学力の樹」という独自のメタファーを提言する。

 「学力の樹」とは、「樹」が持つ「葉」「幹」「根」が渾然一体で成長するためには、「十分な陽の光と豊かな土壌、そして適度な気温とたっぷりとした水が必要であ」り、「樹は、決して自分だけの力だけで育つものではな」く、「環境が、樹の育ちに決定的な影響を与える」ことなどのわかりやすい比喩を使い、いわゆる「見える学力」と「見えない学力」双方を育むことの重要さを説くモデルである。

 また本書で紹介する「学力」調査の結果は、「狭い意味での『学力』」のことと著者は述べ、「学力の樹」で言う「主として『葉っぱ』に相当する部分、すなわち『点数化できる』『目に見える』部分である」と釘を刺し、「学力の樹」全体を育てる「学校・家庭・地域の協働の重要さ」を強調する。

 ところで、文部科学省は二〇〇七年四月二四日に、初めて「全国的な学力調査」を実施することを決めた。

 評者はこの調査結果を、「狭い意味での『学力』」だけに収斂させ、また学校間競争を激化させる学力格差=格差構造の拡大を加速させる道具として使う愚だけは犯してほしくないと思う。 本書で著者が提言する「学力の樹」へと発展させる「形成的評価」に活かすことを願うのである。