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2007.05.29
書 評
 
亀山俊朗
熊沢誠

若者が働くとき
─「使い捨てられ」も「燃えつき」もせず

(ミネルヴァ書房、2006年2月、四六判・220頁、2000円+税)

 労働組合論の入門書である『ノンエリートの自立』(有斐閣、19781)を読んで以来、私は著者からさまざまなことを学んできた。所属していた労働組合に講師として著者を招いたこともある。しかし、本書で著者が次のように言うとき、私は強い違和感を覚えざるを得ない。「私は、働くことにとにかく消極的だった青年が、1995年の阪神大震災のとき、たまたま生き埋めになった被災者を何人か救い出してふかく感謝されたことを契機に、『妻子を養おう』と考えてまじめな建設労働者になったという話などに掛け値なしに感動してしまいます」(132頁)。著者によれば、現代の若者は、地味な仕事に就くための「気づき」、なかでも「自分が苦労することで傍らの誰かを楽にしているという実感」である「『傍楽』(ハタラク)」ことに気づく機会を失っている(131~132頁)。その「気づき」の端的な例として、このエピソードは紹介される。

 救出の経験からレスキュー隊員を志したとか、復興のために建設の仕事をしようと思ったとかいうのなら、私にも理解できる。しかし、なぜ救助の経験が「妻子を養おう」と考えることにつながるのか。もちろん当の青年には、そう思うだけの事情があったのだろうが、なぜ著者は、この話を「気づき」の典型例として持ち出し、ことさらに感動してみせる必要があったのか。私の違和感は、著者が言うように「『妻子を養う』のが男の責務と考えてしまえば、今ではそれは古きにすぎる」(132頁)からではない。本書全体の前提にかかわるものだ。

 本書の第1章「若者労働の状況と背景」では、現状が具体的に概説される。学校から職場への移行(新卒で正社員に就職すること)の困難だけでなく、正社員の厳しい労働実態を問題にするべきだという著者の主張は、きわめて説得的である。

 第2章「状況のもたらす社会的影響」では、第1章で述べられたような状況が、社会的な諸問題を生んでいることが、やはり具体的に指摘される。ただ、「少子高齢化の加速」(第1節の表題)を「ある意味で現時点の最大の問題」(67頁)として真先に挙げるのは、労働問題の専門家としては異色だ。

 第3章「若者労働 状況変革へのチャレンジ」では、第1節で若者対象の施策が紹介される。その不十分さを踏まえ、第2節では、ワークシェアリングの実施や、パートタイマーも入れる企業を横断した地域の組合(コミュニティユニオン)の充実の必要性が訴えられる。その主張には納得するものの、既存の労働組合を「無力」(115頁)と切って捨てながら、若者に対しては労働組合こそが状況を改善すると言い聞かせようとする(113-117頁)のには無理があるのではないかという疑念が、私に生ずる。

 この疑いは、続く第3節「若者たちの主体性」でより深まる。過去を振り返って著者は言う。「家庭、学校、企業という三つのエスタブリッシュメント(既存の権威)が若者に迫ってくる『まともさ』への、ソフトに言えば誘導に、ハードに言えば強制に、当時の若者は大勢としては従い、地味ながら堅実な生活者に成熟してゆきました。そして、そこに管理社会の支配を感じとった少数者は、反主流派の労働運動や、80年代にはかろうじてまだその名に値した革新政党や、学会や言論界に立てこもって別の生きざまを模索する『左翼』になりました」(122頁)。この認識の当否はここでは問わないが、もしそうであったのならばなおのこと、若者に運動への参加を促すには、清算だけではない総括が必要なのではないかと私には思える。

 しかし著者は、それに続けてあっさりと、「ともあれ、ここでもっと注目すべきは、上に述べたような既存の権威による若者の誘導または強制は、1990年の頃から急速に後退しているようにみえることにほかなりません」と述べる。著者にとって、本書のテーマをめぐっては、若者を大人にならしめる権威が失墜していることのほうが重要なのだ。そのため著者は、統制が緩んだ家庭や学校、企業の現状に苦々しげに言及し、もっぱら「自分探し」に明け暮れる(としか著者には思えない)若者たちを批判する。冒頭のエピソードが出てくるのは、それに続く箇所である。

 著者にとってこのエピソードは、青年がレスキュー隊員ではなく、「妻子を養う」ことを志すものでなければならなかった。著者が、少子化を最大の社会問題とみていたことを想起されたい。著者は言う。「今の労働市場と労働現場のきびしい状況は非婚が増加するひとつの原因なのですが、シングルでいることが働く意欲を弱くしている関係もやはり否定できないように感じます」(133頁)。結婚して子どもをつくるという規範の弱まりが、フリーターやニートを生んでいるというのだ。果たしてそうだろうか。

 著者がその崩壊を指摘した、既存の権威が若者を誘導または強制する社会では、男性は「妻子を養う」よう、女性は男性に「養われる」よう誘導または強制されていた。社会保障や税をはじめとする諸制度も、「男性稼ぎ手」モデルを前提に設計されてきた。このモデルは必ずしも全面的に崩壊しておらず、それがさまざまな矛盾を生んでいる。

 日本の労働組合がワークシェアリングに消極的なのは、正社員の男性組合員が、賃下げで教育費や住宅ローンが払えなくなる、すなわち「妻子を養う」ことができなくなるからだ。それ以前に、パートやアルバイトという、それだけでは個人が生活できないような低賃金労働は、男性稼ぎ手が支える家計への依存を前提として正当化されてきた。「妻子を養う」 という男性正社員たちの強い規範意識とそれに伴う諸制度が、むしろフリーターなどを生み出す基盤となってきたのだ。その規範は、多くの失業した男性が、妻子を養えなくなった自分に絶望して死を選んでしまうほどに強力である。

 もちろん著者が、こうした構造を知らないはずはない。しかし、著者は長年、労働者階級文化(言うまでもなくそれは男性中心主義的であり、異質なものに対して排他的である)を規範として議論を組み立ててきた。「妻子を養う」ことを重要な要素とするその規範を、著者としては簡単に手放すわけにはいかない。それは著者が、『ハマータウンの野郎ども』(筑摩書房、1985)に見られるイギリスの労働者階級文化の特質を、「昂然たる気概」と要約する(160頁)のに、よくあらわれている。このことが、著者が自らの労働者像に合致しない「他者」を分析する際の桎梏となっている。

 第4章「教室と職場」では、これも著者年来の主張である、早期の職業教育の必要性が述べられる。かつて、高校段階での学科の専門分化(複線化)は、階級対立下での主体的な労働者の形成という文脈で、単なる階層分化の肯定との違いを担保されていたかもしれない。だがその文脈は、著者自身が近年「階級」ではなくもっぱら「階層」という語を用いることからもわかるように、いまや暗黙の前提にはできない。

 こうした私の論評は、しかし、古い読者にとってはなんの新味もないものだ。著者の「〈労働社会論〉批判考」(吉村励編『労働者世界を求めて』〈日本評論社、一九八五〉所収)を見ればわかるように、労働組合主義(レイバーリズム)をめぐって、かつては活発な議論が交わされていた。私がここで指摘したような論点は、当時すでにほぼ出尽くしている。問題とすべきはむしろ、そうした議論の場が消失したことだろう。そのことは、著者たちを中心とする研究会において、現状の聞き取りのために招かれた若者たちと、彼らに労働組合運動を勧奨する研究会メンバーとの議論が、どこまでもすれ違うさまを描いた本書の終章によくあらわれている。

 著者の議論は、労働者の主体性や主観性を重視するところに、それまでの労働組合論とは異なる特色を持っていた。しかし、労働運動が機能不全に陥るもとで教育により労働者らしい主体を形成しようという問題意識は、公共政策が有効性を失うなかで教育により人的資本や適応能力を育成しようとする昨今の政策的傾向に、奇妙に一致してしまっている(逆説的に言えば、そうした文脈で著者の議論はある種のアクチュアリティを持ってしまっている)。

 この閉塞した状況に対する有効な処方箋は、現れていない。しかし、本書をはじめとして、若年者の仕事をめぐる議論や、格差にかんする議論は活発化している。それらは、失われた議論の場を改めて創り出そうとする試みなのだと考えたい。